幸之助が私財七十億円を投じて神奈川県茅ヶ崎に「松下政経塾」をつくったのは、昭和五十四年六月のことであった。
 設立を前に、ある新聞社の女性記者がインタビューをして、「女性は入れないんですか」と質問した。当初、女性は募集しないということで進んでいたので、その方針を同席した職員が説明した。

 

「これからは“女性の時代”です。女性の政治家というものも、二十一世紀にはきわめて大事ではないでしょうか」という女性記者の意見をじっと聞いていた幸之助は、
「そうでんな、大昔、日本でも持統天皇とか立派な女性の為政者がおりましたな。それに、中小企業の経営で、奥さんがしっかりしているところは、みな成功してますな。だから、あなたが言われた女性を入れるということは、これはやはり必要でしょうな。規則書に“男女”と書くようにしよう。いや、ぼくも女性がおったほうがええわ」

 

 その場で、女性の応募にも応じることに変更した。
 第一期生の入塾試験では合格者は出なかったものの、三十人もの女性からの応募があり、翌年には女性塾生二人が誕生した。

 

 女性記者はのちに、このときのインタビューを回想して、「私が松下さんを言い負かしたのではなく、むしろこっちが背負い投げをくわされたのだった。松下さんがこんなにサラリと規則をひっくり返すとは思っていなかった」と述べている。