頻発する食品・食材の偽装表示。

 この「偽装」を取り締まる法律といえば不正競争防止法です。

 意図的な偽装は「不正」競争を横行させる経営活動なのです。

 松下幸之助は市場競争のなかからイノベーションが生みだされると認識していましたが、その競争はあくまで「正しき闘争」でなければならないと社員に強く訴えていました。

(2013.11.25更新)

 

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 食品・食材の偽装表示問題が世間を騒がせています。「偽装でなく誤表示」と釈明する企業もあるようですが、「無意識に不正を働く」ということがはたして企業にとって許される行為なのでしょうか。また昨今、社会問題化している「アルバイトの不正・不適切行為」など、唖然とさせられる不祥事が残念ながらニュースのネタになっています。こうした行為が明るみにでるたびに、経営の効率化や売上・利益拡大の追求のなかで、なにかが忘れられているのではないかと思われる方も多いことでしょう。

 

 松下幸之助は、自らの経営を急速に拡大させていたころ、(1941年3月31日の朝礼で)従業員にこんな話をしています。

 

 わが社の遵奉すべき精神の中に「力闘向上」という一項がある。会社事業の伸展も、各人個々の成功も、この精神なくしては成り立たない。事業を経営することも、商売を営むことも、そのこと自体が真剣の戦いである以上、これを戦いぬく精神が旺盛でなかったならば、結局敗者たらざるをえないのである。ただし、その戦いたるや正々堂々でなくてはならぬ。他を陥れ、傷つけて己一人独占せんとする精神行動はもとより排すべきであり、どこまでも正しき闘争でなければならぬことはもちろんである。よい意味における闘争心、正しい意味における競争精神、これなきところ、事業の成功も個人の向上も絶対に望めない。この精神のない人は結局熱のない人であり、物事をして伸展せしむるに役立たない人である。

 

 幸いに松下電器の人々には、この精神が伝統的に旺盛であったことが、今日を成す大きな因であったと考える。されば今後といえども、諸君にこの正しき闘争心をどこまでももち続けて、日々の業務に処していただきたいと希望する次第である。

(『松下幸之助 成功の金言365』に収録)

 

 40代後半の意気盛んなころだけに、経営拡大への執念が前面にあらわれていますが、そのなかでも「正しさ」をまず追求するという姿勢をはっきりみてとることができます。

 

 また「力闘向上」とともに、松下は従業員が遵奉すべき精神の一つに「公明正大」を掲げました。ものをつくって売る。代金を回収する。経費をはらい、正しく税金を納める。そうして残る儲けを、松下は創業間もないころから従業員に明らかにしていました。そこに不正な経理が許されるはずがなく、公明正大が貫かれる。その正しい仕事が社内の一体感を生みだし、明日の発展の礎となる。だからこそ松下は「公明正大」であることを従業員にも要求したのでしょう。

 

「正しさ」の価値判断基準は、それぞれの人・企業に存在するはずであり、その基準は、企業風土・文化を形成するといっていいものです。一商人としての姿勢を貫いた松下はというと、「世間」の判断を基準にしました。「世間は正しい」と考え、その正しい世間の要求に従って、経営はなされるべきだとして、お客様の要望にこたえることができないと判断した商品は、市場に出さず、ハンマーで叩き壊したという場面もあったといいます。値段を割り引いて、市場に流すことも決して許しませんでした。

 

 ただ「仕事・商売・経営」においてそれほど厳しく正しさを求めた松下でしたが、「人間」に対しては、すこし異なる判断をしました。著書『決断の経営』に興味深い話を残しています。松下電器がまだ50人ほどの町工場のとき、従業員に不正を働く者がでたそうです。当時、問題があれば即辞めさせることが普通だったにもかかわらず、松下はその処遇に大いに悩みます。

 

 せっかく採用してともどもに仕事にとり組んでいる従業員を、不正をしたからといってただちにやめさせてしまうのは、これは人情からいっても、また経営者としても、あまり気がすすまないことである。できることならば、やめさせることなく、これからも一緒に仕事を続けていきたい。そういうことも考えた。しかし、不正を働いたという事実は事実である。これはもう消えない。みんなと一緒に働いていくといっても、一度不正を働いた者をそのままみんなと一緒に働かせることが好ましいかどうか。工場の主人としては、どうするのが最ものぞましいか。やはり、やめさせるのが一番よいのではないか、どうだろうか。考えても考えても、ハッキリした答えは出てこない。迷うばかりである。しかし、考えているうちに、私の心にふっと浮かんだことがあった。それは、今、日本に罪人が何人いるのか、ということである。そうすると、当時の日本では五十人に一人の割合で罪人がいると考えられた。

 

 その時分、天皇といえば絶対的な存在であった。その天皇の徳をもってしても、五十人に一人いる。それを減らすことはなかなかむつかしい。ゼロにしてしまうことなどもちろんできない。それでは天皇はどうしておられるかというと、じっと辛抱され、日本国内に罪人たちが住むことを許しておられる。そうすると、一町工場のオヤジが、天皇以上のぜいたくを言うことは許されない。天皇でも五十人に一人の割合の罪人を国内においておられるのだから、自分もその通りにしないといけない。だから、今のこの不正を働いた一人ぐらいなら、必要な罰を与えるにとどめて、やめさせず、辛抱しておいておくことにしようと決心した。そう決心がつくと、非常に気が楽になったのである。

 

 この気づきにより、松下は「人を使う上で私なりの一つの哲学ができた」と述べています。人を使うことによる気苦労や心配が消え、100人のうちの1人くらい不正を働く者がでても、それはむしろいいほうだと考えるようになり、さらには従業員を信頼して使うことができるようになったというのです。そして松下のそうした人間信頼の考え方は、PHP研究によってますます深められていきます。

 

 たとえば人間の本性である善と悪について、松下は「悪は悪なりに生かすことができる」と説きます。悪も容認し、適切に処遇することが社会の繁栄につながるととらえたのです。つまりは、社内に不正をする人がでる可能性を頭にいれて、そのうえで自らの経営に「正しさ」を貫くことを徹底したのでした。パナソニックの伝統として、毎朝の綱領・信条の唱和がありますが、これも、日々の仕事のなかで「正しさ」を貫くくことのできる、立派な人間に育ってほしいという、松下の願いがこめられているのです。

 

 ともあれ冒頭に挙げたような不祥事をみるにつけ、「人のふりみてわがふり直せ」という諺に素直に倣って、お互いにあらためて自らの仕事・経営を顧み、正しい競争をしているかどうかを再点検していきたいものです。

PHP研究所経営理念研究本部

 

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