経営理念のない会社は、羅針盤のない船のようなものだ。乗っている人たちは、どこに向かっているのかわからない。また、理念があっても単なる"飾り物"に終わっていたら、事業の推進には寄与しない。接着剤メーカーの積水フーラーは以前、おおよその理念はありながらも明文化されず、経営者が変わるたびに微妙に変化してきた。そのため、社員はより明確な指針となる普遍的な理念を渇望していた。6代目社長に就任した丸山剛さん(「松下幸之助経営塾」卒塾生)は、一番にやるべきは自分たちの揺るがぬ理念の策定だと考えた。しかし、理念は生きたものでなければ意味がない。理念が社員の行動に直結するためには、何が必要なのか。丸山さんの思考と実践を取材した。

<実践! 幸之助哲学>
ある日米合弁企業における行動指針の徹底実践ーー前編

スタートから15年で迎えた新たな局面

「接着を通じて社会に貢献し、全てのステークホルダーに幸せと感動をお届けします!」
二〇二〇年四月一日、積水フーラー株式会社は創立十五周年を機に経営理念を策定し、このミッションを掲げた。これに「お客様の夢を実現する!」というビジョンと、五つの成長行動規範を加え、会社の志を明文化した(次ページ参照)。

積水フーラーは、二〇〇五年、積水化学工業の接着剤事業と米国H.B.フーラー社(世界第二位の接着剤専業メーカー)の日本法人(日本フーラー)とが対等合併して生まれた会社である。出資比率五〇:五〇のジョイントベンチャーだ。代表取締役はそれぞれの親会社から派遣され、定期的に社長と副社長が交互に就任するというかたちが続いてきた。
そのため、日本側の親会社から社長が選任された場合は日系企業のような社風の会社になり、米側の親会社から選任された場合は外資系のような会社になった。積水フーラー独自のアイデンティティがない状態が続いてきたという。

これに終止符を打たなければならないと考えたのが、現社長の丸山剛さんと現副社長の早崎達夫さんだった。丸山さんは、二〇一七年四月にH.B.フーラー選任のボードメンバー(役員)として積水フーラーの経営に参画した人物だ。当初から明文化された理念がないことに課題を感じ、構想と準備を重ねてきた。そして二〇二〇年、社長就任と同時に、副社長に就任した早崎さんと議論を重ね、今回の経営理念を完成させたのである。
経営者が変われば経営方針が変わる。これ自体は当然のことである。それは仕方がないにしても、会社としての価値観、コア・バリューがはっきりしない中での方針転換は、そこで働き続ける人たちにとっては、そのつど一から出直すような徒労感を抱かせるものだった。理念の明文化によってようやく足場が固まった――そんなムードが広がっているという。

もう一つ、社内に好感を持って受け止められたのが、早崎さんの副社長就任だ。早崎さんは、従来の親会社からの派遣ではなく、積水フーラー社内から昇格した初の副社長である。

経営理念の策定と、プロパーの代表取締役の誕生。フィフティー・フィフティーの合弁会社のスタートから十五年の時を経て、積水フーラーは今、経営の新たなフェーズを迎えているのである。

具体的行動に結びついてこそ理念の意味がある

積水フーラーは、接着剤を製造・販売する会社だ。一般生活者がその商品自体を目にする機会は少ないが、実は私たちは生活のあらゆる場面でその恩恵を受けている。

例えば、トイレットペーパーのロールの最初と最後のところには接着剤が使われている。段ボール箱、ティッシュペーパーの箱、紙袋などにも、紙と紙をくっつける接着剤が必要だ。
ほかにもガムテープや封筒、容器ラベル、本、紙おむつや衛生用ナプキンなどにも使われている。身近に使用するものだけでなく、住宅や車両、土木など住宅・建材分野などでの使用も多い。積水フーラーは、ミッションに掲げられた文字通り「接着を通じて社会に貢献」している企業なのだ。

そして、経営理念の策定では、そのあとに続く「全てのステークホルダーに幸せと感動を」というところに、丸山さんの強い思いを表現した。なかでも「幸せと感動」は「Happiness and Wow」と英訳されている。「Wow」は、丸山さんが敬愛するトム・ピーターズ(アメリカの経営コンサルタント、ベストセラー『エクセレント・カンパニー』の共著者)が好んで使う言葉なのだという。

また、ビジョンの「お客様の夢を実現する」のほうは、副社長の早崎さんが思い入れを持つ言葉ということだ。こうしてお互いが持つ強い思いを込めて言葉や表現が吟味され、選ばれていった。

ミッション、ビジョンに続いて、具体的な行動指針を示したものが、五つの成長行動規範である。英訳は「Growth Action Principles」で、積水フーラー社内では略してGAPと呼び、理念と現実のギャップを埋めよう、という意味を含ませている。
丸山さんが重視するのは、ミッション、ビジョンについての理解・納得に加え、このGAPにもとづいた具体的な行動である。

理念がつくられても、額に入れて飾られているだけでは何の意味もない。朝礼で毎朝唱和されても、日々の業務や行動の中にその志が活かされていなければ、絵に描いた餅である。
したがって、積水フーラーでは現在、経営理念の実践と定着のための取り組みが進められている。その一つが、社員を対象にしたワークショップ(研修)の実施である。丸山さんは言う。

「このミッション、ビジョン、GAPに込められた思いを、われわれ経営陣は事あるごとに、繰り返し言い続けます。でも、それだけでは十分ではありません。全社員の行動がGAPにもとづく行動になっていかなければならない。
ワークショップでは、3P[Purpose(目的)、Process(手法)、Products(成果物)]を明確にし、毎回社長と副社長が参加して、経営理念に込められた念いを自身の言葉で社員に直接語りかけます。成果物=最終的なアウトプットとして、参加者に『GAPに照らし合わせて今後自分の行動の何をどう変化させますか』という問いかけをします。別にとてつもなく大きな変化を期待しているのではありません。『今日来たメールにはその日のうちに返信します』とか『ミーティングに参加した際には必ず相手の発言をほめます』など、その日から実践できる小さなことでいいのです。最後にそれを文字に書いて署名する。つまり自分自身に対して約束するのです」

社員を見る時の判断基準は、「それはGAPにもとづいた行動なのかどうか」である。
丸山さんがあるプロフェッショナル人材を課長職で採用した時、一人の社員から異議を唱えるメールが寄せられた。「専門性はあるのかもしれないが、当社の事業・実情は何も知らない。まずは一定の見習い期間を経てから役職登用すべきではないのか」という趣旨だった。

GAPの中の「Engagement」(エンゲージメント)には、「丁寧でオープンなコミュニケーションにより信頼を獲得します!」「私は異文化、多様性と組織の壁を越えて、皆が自由に発言できるようにします!」という文言がある。丸山さんは、この社員の「オープンなコミュニケーション」「組織の壁を越えた自由な発言」の姿勢を評価した。その上で、ジョブ型採用の趣旨を説明しつつ、その進め方には不十分な点があったことを反省するとともに、今後はもっと基準を明確にし透明性を高めていくことを約束した。GAPに書かれていることは推奨される。それを実践して責められることは、決してないのだ。

丸山さんは、積水フーラーに着任した初日から、GAPのような明文化した行動指針を作成する必要を感じたという。丸山さんの経営理念に対するスタンスは、どこから生まれてきたのだろうか。それを知るために、丸山さんのこれまでのビジネス人生、経営者としての歩みをたどってみることにしよう。

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2020年4月1日に定めた経営理念(Mission、Vision、Growth Action Principles〈GAP〉)。GAPの5項目についてさらに詳細な行動指針がある

〝大企業意識〟からの脱皮

丸山さんは新卒で出光興産に入社し、九年間を過ごす。当初から「アメリカに移住したい」という思いがあり、二〇〇〇年に出光を辞めて渡米。ビジネス情報を発信するアメリカの小さな出版社に入社した。結果的にこの転職はうまくいかず、三カ月後には会社を辞めて日本に帰国することになる。
しかし、丸山さんには、この会社のスタッフからかけられたある言葉が今でも耳に残っているという。それは、「あなたからは大企業のニオイがプンプンする」というものだった。新卒で九年間、出光に身を置くうちに、大企業の待遇や価値観がすっかり体にしみこんでいたのだ。経費はふんだんに使える、こまごまとした作業はアシスタントがやってくれる――それまで当たり前に享受していた大企業の恩恵が受けられなくなり、知らずしらずのうちに不満の表情が丸山さんの顔に表れていた。同僚からそれを鋭く指摘されたのだった。

日本に戻った丸山さんは、GEのプラスチックス事業を推進するGEプラスチックスに入社。日本市場で直売を拡大するためのセールスリーダーの一人として仕事を始めた。
「当時、私の他にも多数の日本人が中途採用されました。きっちりした日本企業から転職した方は、外資の〝おおらかさ〟が〝いい加減さ〟に見えて不満を言うのです。もし、私が出光から直接GEに移っていたら、同じように文句を言っていたかもしれません。しかし、一度アメリカの小さな会社を経験することで、今の就労環境が天国のように思えました。だから、もう何でもやってやろうという気持ちになって、一〇〇パーセント自分の力をビジネスに傾注できたのです」と丸山さんは振り返る。

丸山さんのGE入社は二〇〇〇年十月。その翌年、約二十年間CEOとしてGEを率いてきたジャック・ウェルチが引退。ギリギリのタイミングで、ウェルチの息遣いが聞こえる組織を体験したのだった。このことが、その後の丸山さんの経営者としての人生に、大きな影響を与えるのである。


理念に沿った行動が讃えられる企業文化に(後編)へつづく

経営セミナー 松下幸之助経営塾




◆『衆知』2021.5-6より

衆知21.5-6



DATA

積水フーラー株式会社

[代表取締役社長]ヘザー カンペ
[本社]〒108-0075
     東京都港区港南 2-16-2太陽生命品川ビル5F
TEL 03-5495-0661(代表)
FAX 03-5495-0672(代表)
設立...2005年4月1日
資本金...4億円
事業内容...接着剤、シーリング材および化学工業製品の開発・製造・販売