松下幸之助は昭和46(1971)年4月から昭和58(1983)年2月まで財団法人・飛鳥保存財団(現・公益財団法人 古都飛鳥保存財団)理事長を務めました。理事長に就任してまもなく高松塚古墳が発見され、明日香村に対する世間の関心が高まりました。昭和54(1979)年12月4日、昭和天皇が高松塚壁画館を訪問される機会があり、幸之助も明日香村に出向いて対応しました(※1)。
古墳の壁画には朝鮮風の衣装を着た貴人が描かれており、古墳が作られた8世紀当時において、日本と朝鮮の交流が深かった様子を示していました。幸之助は朝鮮への関心を高め、昭和56(1981)年10月19日から3日間、初めて韓国を訪問しています。
韓国では「松下幸之助先生招請特別講演」が開催されました(速記録№1896)。講演で幸之助は「明日香村の古墳の壁画、それを保存するという会を作って、その理事長になってから韓国というものに対する認識が非常に強くなったわけです」と述べ、「もっと日韓両国が一体となって、共存共栄の道を歩んでいかなならん」と主張しました。
幸之助の訪韓を受けて、翌々月の12月1~4日にPHP研究の所員が韓国を訪問しました(※2)。同月21日には、幹部が集まって「韓国PHP研究所」の設立について検討した記録が残っています(※3)。
1)昭和55(1980)年5月、明日香村の景観保存と、当時7,000人の村民の生活向上の両立を目指す「明日香村特別措置法」が成立しました。松下幸之助「日本人の心のふるさと」『飛鳥'71~1981 保存10年の歩み』飛鳥保存財団、1981年。
2)昭和56年『PHP研究所所誌』ファイル添付資料「韓国訪問の記録」より。
3)同上12月9頁、「12月度出版・普及・総務幹部会議」より。