【理念継承 わが社の場合】ここでは、会社の健全な成長という視点で同族経営から脱皮し、経営者としての意思と意欲のある人材に継承した、同塾塾生の企業事例をご紹介します。
理念経営 わが社の場合
プロ職人の要望に応える豊富な品ぞろえ
「いらっしゃいませ!」
店に一歩足を踏み入れると、若い店員さんの元気のいいあいさつが響きわたる。店内に所狭しと陳列されているのは、電動工具や設備工具、溶接、板金、左官、内装などで使用するさまざまな道具・工具類である。ほかにも、安全帯や防塵マスクといった保安用品、鋸やカッター、ドリルなど刃物・替刃類も充実している。株式会社國貞は、東京都足立区の本店のほかに、都内およびその近郊に七店舗の「道具屋」を展開する、建築業界専門のプロショップである。
とにかく建築現場で必要になる道具に関しては、必要なものはすべて取りそろえたいという思いで、25000アイテム以上の商品を常備。他店だと取り寄せになるような商品でも、國貞の「道具屋」に行けば手に入ると言われるまでに品ぞろえを追求してきた。
また、建築現場は朝が早く、8時ごろから朝礼を行うところが多い。都心の現場に向かうとなると、渋滞などを計算に入れれば、5時台、6時台に家を出るというのはよくあるケースだ。当日の朝になって急に道具が必要になっても、普通の店だと開店前で購入できない。そのとき、店が開いていれば、道具を調達してから現場に向かうことができる。
そこで、國貞本店では早朝5時30分に開店し(他の7店舗の道具屋は6時)、職人さんが現場に入る前に、必要なものを取りそろえられるようにしている。インターネットによる通販が拡大している時代であるが、どんなに早くても届くのは翌日である。その日に道具がなければ、現場に着いても仕事にならない。品ぞろえ豊富で早朝から開店している店は、プロ職人にとって大変重宝する存在なのである。
「國貞」の選択と集中──金物店から道具専門店へ
株式会社國貞──社名を聞くと、有名な江戸時代の侠客・国定忠治を思い起こす人も多いかもしれないが、創業者・渋木文明さんの命名だという。刃物の町である新潟の与板(現新潟県長岡市)出身だった文明さんは地元で鉋鍛冶の修業をしたあと上京した。そして、東京で職人として独立するときに、知人の細川國貞さんという人の名前の語感を気に入り、その名前を刃物の銘として購入したのである。いわばブランド買収だ。文明さんは「國貞」ブランドの鉋をつくって生計を立てていた。
しかし、時代は高度経済成長期に入り、いわゆる「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)をはじめ、掃除機や電気釜など、さまざまな家庭電化製品が世に普及し始める。これまで人の力によってなされてきたことが、電力に取って代わられていったのだ。建築工具の類(たぐい)も例外ではなかった。電気ドリルや電気鉋などが次々と開発され、次第に現場に浸透していく。鉋を使う職人が少なくなり、鉋鍛冶の仕事は激減してしまった。
一計を案じた渋木家は、建築用の金物の販売に踏み出す。建築金物とは、ボルトやビス、取り付け金具など、建築に使用されるあらゆる金属類のことである。住宅やビルなど建築物が建てられると、それにともなってさまざまな建築金物が使われる。それらを取りまとめて販売する「國貞金物店」を創業したのである。家族総出で商いを行う家業だった。
業容が拡大するにつれ、中心的な役割を果たしていったのが文明さんの次男、渋木秀明(ひであき)さんだった。金物店の創業から10年になる昭和56(1981)年、株式会社國貞として法人化するのを主導。後年、二代目社長に就任し、現在は顧問という肩書である。
秀明さんが取り組んだことの1つに、キャッシュフローの改善がある。建築金物の販売は、掛け売りである。顧客の多くは工務店で、建物が建つまで売上金が入らない。施主から工務店に建築費が支払われてから、國貞金物店に入金される。回収サイトが長く、貸し倒れの危険性もある。痛い目に遭ったことも一度や二度ではない。資金繰りには常に神経をとがらせていなければならなかった。
資金的に不安定なこの状態をなんとか脱したいと、秀明さんは1つの決断を下す。それは、創業からずっと取り扱ってきた建築金物をやめて、建築道具に品物を絞るということだった。道具は日常の仕事で使うものだから、職人さんが現金で買う。つまり掛け売りから現金商売に変えようというねらいだった。
その代わり、職人さんにとってほんとうに利便性が高くメリットを感じてもらえるような店にする必要がある。「國貞に行けばなんでも手に入る」といわれるだけの豊富な品ぞろえと、早朝5時30分というまだ世間が動き始める前の開店は、そのための条件だった。
限られた資本をどこに投下するのか。「選択と集中」は、いつの時代の企業にとっても将来を左右する重要な経営課題であるが、道具に絞り込んだ國貞の選択は、その後の社の針路を決定づけることになったといってもいいだろう。つまり、どこにでもある「小さな金物店」から、「他にはない道具専門店」への道を突き進むことになったのである。
「道具屋」第1号店で磨かれた経営者の資質
平成12(2000)年、國貞は蒲田(東京都大田区)に初めての「道具屋」を出店する。金物店から道具専門店へという転換を決めたものの、國貞本店には従来のお客様がいる。長年の顧客との取引を継続しつつ、徐々に転身を図るという状態だった。それだけでは、どうしてもスピード感に欠ける。そこで、新規出店をして、新しいコンセプトでチャレンジすることにしたのである。
その第1号店である蒲田道具屋の初代店長に任命されたのが、鈴木進吾さん(現社長)だった。
鈴木さんはもともと内装関係の職人で、客として國貞に出入りしていた。20代の前半で現場の責任者を任されるほどになっていたが、どうもその先の伸びしろが見えてこない。そこで、転職ということも頭の片隅に考えていたところ、國貞が求人募集していることを知って応募してきたのである。
即、採用ということになったが、その直後、鈴木さんが抱えていた現場が難題に直面し、現場を離れられなくなってしまう。「これを終わらせないと、そちらに伺うことはできません」と言って、入社の時期を遅らせてまで、任務を果たしてきた。鈴木さんの責任感の強さを示すエピソードである。
当時社長であった秀明さんが、蒲田に新たな店舗を出すことを決心したのは、鈴木さんが入社して6年ほどたったころだった。新店舗の責任者をだれにするのか──秀明さんは、自分が指名するのではなく、みずから手を挙げた人間にやらせることにした。それが、鈴木さんだったのである。
道具専門店の新規出店は國貞にとって初めての経験で、社内のだれにもノウハウがない。蒲田は東京都区内とはいえ、國貞本店のある足立区とは正反対の方向にあり、土地勘もない。そのうえ、近くには巨大な競合店もあった。しかし、鈴木さんにとっては、そのような厳しい条件ですら、かえって新鮮に思えた。
道具専門店の新規参入。固定客がいるわけでもなく、はじめはほとんどお客は来なかった。どうすればお客様に来てもらえるか。鈴木さんは、もう1人の店員と2人で店に泊まり込み、朝6時から夜8時まで店を開け、土日祝日も関係なく働き続けたという。品ぞろえも、価格設定も、すべて自分たちで決めた。
「前例がないから、好きなようにできた。面白かったですね、いま考えると」
と鈴木さんは振り返る。常識破りの商法に、近隣の競合店から「なぜそんなに安いんだ」「どうしてそんなに長く営業するんだ」と不満の声が寄せられるほどだった。
値付けのことは、秀明さんも想定外だった。
「おまえは國貞一の安売り王だな」
秀明さんにそう言われても、鈴木さんは意に介さなかった。結果を出さなければならないのは自分である。とにかく1号店を軌道に乗せる必要がある。そのために考えられることは、なんでもやった。
こうして、手探りでスタートした道具専門店に、次第にお客様が集まるようになってきた。当初、価格と品ぞろえと営業時間で勝負していた鈴木さんだが、お客を引き付けるのはそれだけではないということに気がつき始める。お客様とのコミュニケーションの中で、教えられることがある。物や情報はあふれんばかりに氾濫(はんらん)しているが、その中でほんとうに満足しているお客様は必ずしも多くはない。そのお客様の言葉にならない思いを受け止め、商品やサービスとして提供していくことこそ、自分たちの役割ではないか。そう考えるようになった。
現在、國貞では自社オリジナル商品「オルグ」を開発しているが、鈴木さんのこのときの思いが原点になっているのかもしれない。
◆創業家から巣立つ事業継承(2)へ続く
◆「PHPビジネスレビュー松下幸之助塾」2013年3・4月号より