昭和53(1978)年9月12日、大阪市北区の電子会館で松下幸之助は丹羽正治・松下電工会長(当時、以下同)とともに記者会見を開き、松下政経塾の構想を発表しました(録音№1675)。松下電器の尾崎和三郎・広報本部長が司会でしたが、松下正治会長や山下俊彦社長などは出席せず、松下電器の事業とは異なる内容という位置づけでした。冒頭で幸之助は「きょう、急に皆さんにお集まりいただきまして」と述べ、「早めにね、まあ皆さんに聞いていただこうと思って」記者会見を開いたと説明しました。

 会見では塾舎の模型も展示され、記者がイメージしやすいように配慮がなされています。「設立趣意書(案)」が読み上げられた他、「付属研究所というものを設置する」とし、研究テーマとして、初期のPHP研究所で作成された「第一次研究十目標」が紹介されました。塾頭の久門泰(ひさかど・ゆたか)氏、副塾頭の合田洋行(ごうだ・ひろゆき)氏も出席し、自己紹介をしています。


 質疑応答に入ると、記者が次々と質問し、幸之助と丹羽会長が一つひとつ丁寧に答えました。昭和53年は松下電器創業60周年でもあるので、これを記念した事業なのか質問する記者もいて、幸之助は再度、松下電器とは関係がないことを強調しています。この段階で幸之助は塾の「設立は必ずできると思います。ただ(良い塾生が集まって)開塾できるか」が問題だと言いました。


 記者にとっては急な発表だったこともあり、残された音声からは、戸惑いながら質問している様子も聞き取れます。95分にわたる会見でも要領を得なかった記者がいたようであり、最後に丹羽会長は「私は(松下)相談役は、止むに止まれん思いやと、こういうことやと思うんですわ」と補足しています。


 翌日付の新聞各社は一斉にこの構想を報道しました。幸之助の言葉として、「仮に社会党から立候補したいといえば、それも結構」(『読売新聞』)、「"松下新党"などをねらったものではありません」(『毎日新聞』)、「私に万一のことがあれば丹羽君が二代目の塾長をついでくれることになっている」(『京都新聞』)などが紹介されています。