21世紀はアジアの時代になると予見した松下幸之助は、松下政経塾の開塾を前に、海外へ視野を広げました。昭和54(1979)年6月25日~7月4日には中国を訪問しています。
これ以前から、幸之助は中国の要人と面会する機会を設けており、主な面会者として下記の人々があげられます。
幸之助は6月29日、北京市・人民大会堂を訪問し、鄧小平副首相と再会しました。10日ほどの滞在で複数の要人と面会しており、一部の動画が残っています(動画№ODA579010)。
帰国直後、幸之助は大阪国際空港(伊丹空港)のVIPルームで記者会見を開き、日本の主な家電メーカーが一体となって中国と合弁企業を設立する構想を鄧副首相に提案してきたと明かしました(録音№1748)。記者団は騒然となり、幸之助が退席した後も随行した松下電器社員に質問が殺到しています。
同年11月8日には、「北京市友好代表団」一行が松下電器を訪問しています。さらに、幸之助は中国情勢に詳しい岡崎嘉平太氏と12月19日に松下電器東京支社で対談し(録音№1791)、中国に関する見識を深めました。
こうした準備を経て、翌昭和55(1980)年10月6~16日、再び中国を訪問することになります。