昭和54(1979)年6~7月に中国を訪問した松下幸之助は、日本での準備を経て、昭和55(1980)年10月6~16日、再び中国を訪問しました。山下俊彦・松下電器社長(当時)も一部同伴しています。

 幸之助は第1回の訪中で、日本の家電メーカーが一体となって、中国と合弁企業を設立する構想を鄧小平氏に提案しました。この構想に対して、三洋電機は積極的でしたが(※1)、難色を示す企業もあり(※2)、足並みはそろいませんでした。


 第2回の訪中で、幸之助は北京、杭州、上海を訪問しています(動画№ODA580008)。北京では、鄧小平氏ら中国要人に、その後の日本側の状況を説明しました。12日には、同じく北京で松下電器が「松下総合電子技術交流会」を開催し、8日間にわたって最先端の商品や生産技術300点を展示、2万5,000人を動員しています。幸之助は13日に杭州で観光をした後、16日に視聴覚機器を納入した復旦大学(上海)を訪問しました。第1回の訪中に比べ、観光の日程を多めに組んだのが特徴と言えます。


 第1回の訪中と同様に、帰国直後に大阪の伊丹空港VIPルームで記者会見が開かれました(速記録№1843)。幸之助は、観光と先方からの返礼が主な目的だったと述べ、合弁企業の構想についは「業界をあげて共同でやるということは、もうやらない方がいい」との考えを示しましたが、今後中国へ「毎年1回行く」と宣言しています。


 幸之助者による2回の訪中を受け、昭和56(1981)年6月17~23日、「PHP研究所友好訪中団」が訪中しました。幸之助によれば、上海市長からPHP研究所に訪中の要請があったということです(速記録№5609)。訪中団は復旦大学などを訪問して講演会を開催しています(※3)。



1)「日中合弁の実現へ」『朝日新聞』昭和54(1979)年8月10日付。


2)「合弁構想こだわらぬ」『朝日新聞』昭和54(1979)年10月6日付。


3)昭和56年『PHP研究所所誌』ファイル添付資料「PHP研究所友好訪中団日程」より。