ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏は、松下幸之助と深い交流がありました。もっとも古い面会の記録としては、昭和22(1947)年1月29日、湯川氏は京都帝国大学総長の鳥養利三郎氏と共にPHP活動に参加しており、3人で「繁栄鼎談」を行なっています。その様子は後に創刊された月刊誌『PHP』第2号に掲載されました(松下幸之助発言集36所収)。昭和23(1948)年8月10日にも、「PHPのことば その7・自然の恵み」に関する討議に参加した記録が残っています(友の会本部日誌)。

 ノーベル賞の受賞が昭和24(1949)年11月3日に発表された後も、湯川氏は昭和26(1951)年にアメリカで幸之助と面会しているほか(※1)、幸之助が発足させた新政治経済研究会で、昭和30(1955)年5月30日に原子力問題についての討議に参加した記録があります(※2)。真々庵でPHP活動が再開されたころには和歌山県人会「音無会」の特別会員になっており、昭和37(1962)年5月12日に会員として来庵しました(業務日誌)。また、昭和38(1963)年、『財界』誌の企画で幸之助と対談しています(松下幸之助発言集12、録音は現存せず)。


 それ以降は面会の記録がなく、交流は間接的になったようです。昭和39(1964)年5月25日、湯川氏が揮毫した「松下幸之助君生誕の地」の石碑の除幕式が和歌山市で執り行なわれましたが、両者とも出席はしていません(※3)。


 昭和40(1965)年から10年間にわたって、幸之助は湯川記念財団に個人名義で毎年10万円を寄付しており、その後も「松下電器産業株式会社」名義などで寄付をした記録があります(※4)。


 昭和45(1970)年10月創刊の英文版『PHP』誌には、同年4月の創刊準備号に湯川氏が推薦の言葉を寄せました(写真)。最後の寄稿と見られるのは、昭和49(1974)年1月発行の日本語版『PHP』誌第308号75~79頁に掲載された「"思いつき"をバカにするな」です。


 闘病生活を送っていた湯川氏は、昭和56(1981)年9月8日に逝去しました。享年74。幸之助は翌日に「日本人として初めてともいうべき大発見をされたということは日本人の誇りでもありました」(※5)とコメントを発表しています。湯川氏の自宅で執り行なわれた葬儀には、幸之助から贈られた大きな花輪が飾られました(※6)。



1)昭和26(1951)年2月27日付の記述で、「湯川秀樹博士にお会いしました。先生は大変お元気でした」。「松下所長によるアメリカからの手紙第十四信」『PHP』昭和26(1951)年3月(第46)号10頁。


2)『新政経ニュース』第67号18頁、昭和30(1955)年6月1日発行。


3)音無会編・発行『音無会三十年の歩み』(1983年)48~53頁。


4)財団法人湯川記念財団編・発行『湯川記念財団40年の歩み1956-1996』1996年(下記HP)より、幸之助個人の寄付は5頁、松下電子部品は32頁、松下電器産業は34頁に記述があります。

  http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~yukawa.kinen.zaidan/pdf/YukawaF40years_1956-1996.pdf


5)「"世界の頭脳"逝く...――湯川博士を悼む」『毎日新聞』昭和56(1981)年9月9日付。


6)「小雨つき悲しみの弔問客・湯川邸」『サンケイ新聞』昭和56(1981)年9月9日付。