昭和53(1978)年9月12日、松下幸之助は記者会見を開き、松下政経塾の構想を発表しました。ロッキード事件が昭和51(1976)年2月に発覚して以降、国民の政治に対する不信感は非常に強く(※1)、政経塾の構想は人々の期待と注目を集めました。また、政経塾の設立はPHP活動の一環であることを幸之助が公の場で繰り返し強調したため、PHP研究所についても、社会の関心が高まることになりました。

 昭和55(1980)年4月の松下政経塾開塾に合わせて、東京の八重洲ブックセンターでは、同年3月1日から4月30日に、約20坪のスペースを割いて3,000冊を販売する「PHP全点フェア」が開催されました(※2)。月刊誌『PHP』も部数を伸ばし、昭和55年10月号は過去最高の150万4,450部に達しています(※3)。


 松下政経塾の構想の発表後から、PHP研究所の書籍は幸之助の著書だけにとどまらず、児童書も含めて全てのジャンルの既刊本が増刷されるほどの売れ行きとなりました。ほとんど月10点以下だった新刊書籍の発刊点数は、開塾半年後には倍増しました。すでに絶版となっていた書籍の新装改訂版も、この時期に多く出版されています。


 こうした需要の急拡大に対応するため、PHP研究所は昭和55年から大学新卒の採用を大幅に増やし、出版事業の体制を整えていきました。



1)幸之助は次のように言っています。「ロッキード問題がおこると政治はこれ一色にぬりつぶされた観がありました。/すなわち、予算の審議などはいわばそっちのけで、政府も与野党もあげて、ロッキード問題の真相究明に没頭したのです」『政治を見直そう』(PHP研究所、1977年)37頁。


2)「書籍 普及一部だより」『ウィークリー』昭和55(1980)年2月21日。


3)『ウィークリー』昭和55(1980)年9月5日の表紙に記載。