松下幸之助は、昭和26(1951)年1月18日から4月7日、初めてアメリカへ渡航しました。残された資料によると、幸之助の海外への関心は、PHP研究所創設時から高く、その後もさまざまな手段で海外の情報を収集していた様子がうかがえます。

 

 PHP研究所創設の翌日、昭和21(1946)年11月4日の「第一回会議」では、研究所の組織について話し合われ、「所室ニオールウェイブ」を設置して「内外ノ情勢ニ通ジル」ことが決定されました(業務日誌)。「オールウェイブ」とは、海外の短波放送も受信できるラジオであり、同月13日に予定どおり設置されています。

 

 また、佐賀県に住む松田介三という人が、スイスのジュネーブで開催予定の「Peoples World Convention」(世界人民会議)について、幸之助に手紙を送ったことがありました(昭和25〔1950〕年11月22日づけ)。会議は同年末から翌26(1951)年1月2日にかけて開催され、松田氏は日本代表として幸之助を推薦しておいたと記しています。幸之助は、社用のため参加できなかったものの、後日、松田氏に宛てて「今後外国の諸団体と緊密な連携をとりたいと考えております」と返事を書きました(昭和26〔1951〕年1月10日づけ)。

 

 幸之助の渡米後には、CIE(Civil Information and Education Section・民間情報教育局)からPHP研究所へ、アメリカで刊行されている雑誌や新聞についてまとめた資料が定期的に送られています。昭和26(1951)年の7月から、翌27(1952)年の3月まで毎月のように送付されていて、資料に添付されていた手紙によれば、CIEに申請すると、興味のある内容についてより詳細な資料を入手でき、自社で発行する雑誌などの媒体に掲載することができました。PHP研究所は、ロックフェラー財団に関する資料を請求したことがあり、同財団の寄附実績を紹介した、昭和26(1951)年7月26日発行の『Rockefeller Foundation Grants』(ロックフェラー財団補助金)№2が現存しています。