松下幸之助は、戦前から歴代の大阪府知事と面識がありました。昭和16(1941)年から2年半知事を務めた三辺長治氏は、戦後にPHP研究所の顧問を8年間務めています。昭和34(1959)年から12年間知事を務めた左藤義詮氏は、PHP活動の当時の拠点であった京都東山山麓の真々庵を任期中に何度も訪れ、ほど近くに佇む幸之助の私邸・楓庵に宿泊したこともありました(※1)。

 昭和46(1971)年から知事を務めた黒田了一氏は、革新系の元大阪市立大学教授であり、選挙で2選を果たしたことから、大阪財界では黒田氏の3選は阻止したいという気運が高まりました。黒田氏について「学者にしておくのは惜しい、知事にしておくのも惜しい」(※2)との考えを述べていた幸之助は、対抗馬となる岸昌(きし・さかえ)氏の陣営から後援会会長の就任を打診されます。昭和53(1978)年9月12日、岸氏は幸之助を訪問し、政治のあり方について意見交換を行なっています(速記録№1674)。


 同年11月14日、実質的な運動は一切しないことを条件に、幸之助は岸氏の後援会名誉会長に就任しました。勢いを得た岸陣営は、翌昭和54(1979)年4月の選挙で、社会党や自民党など5党の協力を得て、当選を勝ち取りました。


 大阪府知事に就任した岸氏と幸之助は、同年6月12日に『日刊工業新聞』の企画で対談を行なっています(録音№1746)。翌7月27日、幸之助は大阪商工会議所国際ホールで開催された「関西復権会見」で講演し、「幸い今度知事さんが変わって、関西連合体をつくってやろうという兆しがでてまいりましたから、私はちょうど幸い、そういうことも考えによっては可能やと思うんです」と述べました(速記録№1751)。


 昭和57(1982)年4月に発足した大阪21世紀協会では、幸之助が会長、岸氏が副会長を務め、二人の交流はその後も長く続きました。



1)左藤氏は昭和37(1962)年6月13日に真々庵を訪れ、その晩は楓庵に宿泊しました。左藤氏のラジオ番組『心を洗う』は、当時のPHP研究において継続的に聴取された記録が残っています。


2)黒田了一『わが師 わがことば』(毎日新聞社、1978年)所収の幸之助による「序文」より。