PHP研究所は昭和26(1951)年、沖縄への進出を計画したことがありました。今日『PHP沖縄研究所設立要請書』という資料が残っています。


 この資料は、松下幸之助が「PHP沖縄研究所設立準備委員」に、研究所の設立を「要請」する形式で書かれています。同年5月1日を「PHP沖縄研究所」の設立日とし、「本部研究所と密接な連絡を保ち、研究活動と運動活動を速やかに開始」することになっていました。住所は、当時の表記で「那覇市安里二ノ七」であり、「連絡所」が、「糸満、石川、名護、胡差、大島、宮古、八重山、首里、与那原」の各地に設けられ、「宮里富三」という人が「研究所長代理」となる予定でした。

 目標とされた活動は、第一に「沖縄の繁栄、平和、幸福」を実現するため、各方面の衆知を集めて、その成果を月刊誌『PHP』に掲載すること、第二に講演会、研究会、懇談会を開催すること、第三に沖縄において『PHP』を広く普及することでした。資料には、「既成の理論に捉われることなく、虚心坦懐、素直な心で、繁栄の理論及びその実践方策を研究する」という言葉も見られます。

 当時の日本は、昭和27(1952)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を迎えつつありました。沖縄は、条約発効以降も引き続きアメリカの統治下におかれる見通しだったので、こうした計画が立てられたと考えられます。
 しかし、その後の『PHP』に、「PHP沖縄研究所」に関する記述や、宮里氏による寄稿は見当たらず、実際に「PHP沖縄研究所」が設立されたのかは不明です。