昭和29(1954)年8月、月刊誌『PHP』は長期休刊となることが決定されました。同月25日に松下幸之助が顧問の三辺長治氏に宛てた手紙には、「今まで月刊で出しておりましたPHP誌を暫時休刊することとし、構想がまとまり次第面目を一新して刊行することにいたしました」と記されています。同年9月号である第82号を最後に「暫時休刊」となるため、8年近く毎月続いた三辺氏への顧問料の支払いも打ち切りとなりました。幸之助は「PHPに対する構想を新たに練り直し、更に強力に推し進めたい」と述べ、新たな活動を開始するために休刊を決意したようです。

 

 このとき大阪郵政局長に宛てて書かれた「休刊届」も現存しています(写真)。当時は一号だけ休刊する場合でも、「休刊届」が出されましたが、その場合は何月号を休刊するか明記されていました。ここでは休刊する号や、再開の予定などは記されていないことから、長期にわたる休刊を予定していたことがうかがえます。

 

 『業務日誌』を見ると、同年の10月には坂口という所員が松下電器本社へ出勤し、「事務室移転整理」をしばしば行っていました(※1)。当時は西宮にあった幸之助の私邸の光雲荘にPHP研究所があったため、休刊に伴って本社への「事務室移転」が計画されていたようです。しかし同年10月25日には、第83号へ向けた編集業務が突然開始されました。その理由について『業務日誌』に記載はなく、坂口所員による「事務所移転整理」は以後中断しています。

 

 翌26日に錦所員は壽岳文章氏に会い、27日に河井寛次郎、黒田重太郎両氏と面談、翌月11月1日には今田幾代氏が研究所に来所しています(業務日誌)。壽岳、今田両氏は第84号の執筆者であり、河井、黒田両氏もこれまでしばしば『PHP』に寄稿していました。発行が再開となったことで、錦所員は急いで方々に原稿依頼を出したように見受けられます。

 

 結局このときは10月号を休刊し、11月号(第83号)が半月遅れて発行されただけで、長期の休刊にはいたりませんでした。前後の『PHP』を見ても「面目を一新」した様子はなく、「編集後記」などに休刊に関する記述は見当りません。

 長期休刊が中止になった理由は不明ですが、幸之助が翌昭和30(1955)年8月13日、知人に宛てた手紙には、昨年より「健康をそこないました」(※2)とあります。これを重視するならば、病気により当初予定していた新たな活動は中止となり、その結果『PHP』は従来どおり発行されるようになった可能性が考えられます。

 


 

1)『昭和廿九年八月廿七日起 PHP研究所業務日誌』、昭和29(1954)年10月9、13、20、21日。

2)『PHP所史』ファイル(昭和28~36年)25頁所収、「石井寿子」宛手紙より。