真々庵において研究活動が再開されて後、昭和36(1961)年9月24日に「PHP研究所開所披露並びに月見の宴」が開催されることになりました。松下電器の松下正治社長を含む同社の役員18名が招待されています(当日1名欠席)。

 

 しかしこの催しの前、9月16日、猛烈な風を伴う台風18号(第2室戸台風)が近畿地方を襲いました。日本観測史上屈指の勢力を持ったこの台風の影響で、真々庵では「松の大木が途中より折損し、幹が二階事務所屋根に激突、あるいは杉、檜の大木が倒壊、板塀が吹き飛ぶなど」(PHP研究所誌)、多くの被害が出ました。そうした中でも、松下幸之助は「ラジオに耳を傾けられ……終始おだやかな御表情をもって行動せられ」たと記録にあります。台風が去った後、月見の宴まで日程が迫っていたこともあって、所員は池の掃除など、修復作業に追われました(写真)。

 

 9月24日当日、幸之助はむめの夫人と共に朝から来庵し、宴の準備について所員に指示を出し、午後4時30分頃から来賓が到着し始めています。5時20分よりお茶席が開かれ、5時50分から約40分にわたって幸之助の話がありました。「私は政治、経済、宗教、教育とそういうふうなもののあり方というものを十分に研究してみたい。そうして初めて、PHPというものがそこに生まれてくるんではないかと思います」と述べています(※1)。

 

 大阪北新地の「琴屋」や京都市先斗町の「大市」より芸妓14名が呼ばれ、料理は「辻留」から用意されました。当日はあいにくの曇天でほとんど月が見えなかったようですが、「ときおりきれる暗雲の間より、真円の名月はその華麗、荘厳なる姿をみせ、雲間よりもれ出ずる煌々たる光は近くの雲に反映して、えもいわれぬ色彩の妙を画き、しばしば拍手鳴りやまず、一段と宴は盛上がった」(PHP研究所誌)と記されています。午後8時30分に、松下電器の伊藤武雄監査役の発声により万歳三唱が唱えられ、月見の宴は無事に終わりました。

 


 

1)《速記録》№278、17頁。