京都東山山麓、真々庵において研究活動を再開してから1周年を翌日にひかえた昭和37(1962)年8月17日、PHP研究所において盗難事件が発生しました。当日、松下幸之助は、朝9時37分に来所し、根源の社へ参拝したのち、9時58分には新大阪ホテルへ向けて出発しています(※1)。その2分後、PHP研究所所員は、ロッカーに置いてあった手提げ金庫の中から、現金と株券がなくなっていることを発見しました。

 

 川端警察署から警察官が来所して現場検証をし、所員は全員指紋を採取されました。一方、松岡正所員は、株券の盗難処置について松下電器産業の文書課植田課長に相談するため、本社へ急いでいます(業務日誌)。検証の結果、警察は「犯行の手口からみて、男子の単独犯にて、余程手なれた前科者ではないか」との見解にいたりました(PHP研究所誌)。


 被害総額は、「現金、52,624円」(現在の価値で約26万円)と、PHP研究所の株券の「千株券32枚(1株の金額1万円)」と記録されており、当時の簿価で3億2000万円の損害でした。しかし届出により、翌昭和38(1963)年5月6日に京都簡易裁判所にて除権判決があり、盗まれた株券は無効となっています。記録には「株券については除権判決の日までに届出あるいは発見されることがなかった」(PHP研究所誌)と記されていて、損害は現金約5万円だけに留めることができました。

 

 幸之助は、盗難発見の翌日18日、第13回朝食会(現在の真修会)のために来所し、「深くくやんでも仕方がない」としつつ、「(株券を)手提金庫の中に保管しておくということは、その額からして調和を欠いている」とか、「素直な心になれば、物の軽重ということが、すぐわからねばならない」と言いました(研究日誌)。

 

 19日は日曜日にもかかわらず、錦茂男、松岡正、松木初枝の3人の所員が出勤しており、松下電器本社から元京都府警本部長の小川鍛(きたえ)常務(当時)が来所しています。検討の結果、鉄条網の設置など、8月20日から真々庵の防犯工事が開始され、同年8月29日より、犬2匹が飼われることになりました(業務日誌)。

 


1)8月17日の記述は『業務日誌№2自昭和37年3月13日至昭和37年10月8日』150頁、その日の幸之助の行動については、『松下会長日誌』132頁より。盗難事件の詳細は、『PHP研究所誌』(昭和36〔1961〕年8月~昭和41〔1966〕年6月)56~57頁。