高野山において若くして頭角を現した野澤密全氏は、明治31(1898)年9月、香川県生まれ(※1)。11歳で親元を離れて奈良県の信貴山(しぎさん)で寺に入り、14歳の時に僧侶となっています。27歳という異例の若さで宗会議員(真言宗の運営を決める議員)になったほか、大阪で野澤幼稚園を運営したりするなど、その活動力は青年期から群をぬいていました。

 

 松下幸之助は、「戦時中、松下金属で講演をお願いした」と述べており(※2)、戦時中にはすでに知り合いだったことが分かります。だれもがやがては高野山のリーダーになると思っていたところ、野澤氏は戦後に高野山を離脱して、独自に信貴山真言宗を立ち上げました。


 終戦直後の初期PHP活動では、昭和21(1946)年12月3日に、幸之助から野澤氏へPHP研究所のパンフレットが送られた記録があるほか(※3)、翌年には野澤氏がPHP研究所を訪れ、幸之助はそのお礼状を送っています(※4)。敗戦後の日本再建について、志を同じくしていたようであり、幸之助は「誠に御高邁なる御意見続々御発表を賜はり、将来、弊所研究に資する所甚大」(※5)と手紙を送ったこともありました。
 真々庵における研究活動再開後、昭和37(1962)年7月21日にPHP研究所を訪問しています。幸之助が「寄付して(信貴山に)道場を作ったそのお礼」(松下会長日誌)で訪問しており、信貴山へは「そのうちお伺いする旨約束をした」と幸之助は述べています。面会の様子について、幸之助は「全くお元気であった」と、相変わらずのエネルギッシュな姿に称賛を惜しみませんでした。
 野澤氏は、奈良県教育委員長などを歴任し、昭和46(1971)年11月16日、享年74で遷化。真言宗の新聞である『六大新報』は、本葬に1000人が参列したと伝えています(※6)。

 


1)以下、野澤氏の経歴は、野澤密全「自叙伝」『宗政三十年想い出の記』(信貴山玉蔵院、1965年)、堀田真快「噠嚫文」『六大新報』第3007号(昭和46〔1971〕年11月発行)86面など。
2)『松下会長日誌』124頁。昭和37(1962)年7月21日の記述。
3)『発送文原稿綴 自昭和21年10月1日』3頁。
4)同176頁、昭和22(1947)年6月4日づけ。来所した日はその数日前と推定されますが、不明です。
5)同35頁、同年1月15日づけ。
6)本葬の様子は『六大新報』第3007号(昭和46〔1971〕年11月発行)86面。