南禅寺近くにPHP研究所を設けた松下幸之助は、昭和37(1962)年、南禅寺管長の柴山全慶氏に真々庵へ来てもらい、10回にわたり、仏教の出張講義を受けたことがありました。通常は大本山の管長が出張講義をすることはなく、しかもこの時は幸之助のスケジュールに合わせて来所する異例のサービスでした。
まず、同年1月6日、PHP研究所を西宮市から京都市南禅寺のとなりへ移してから初めて、幸之助は南禅寺へあいさつに行きました(松下会長日誌)。管長の柴山氏と面談し、「極めて枯淡的な味のある仏教修行者という感じが如実に出ている人であるが、一面非常に人なつかしい人柄である。今後いろいろ禅の話しを聞かせてもらいたい旨話して帰った」としています。
3カ月ほど後、同年3月25日、「南禅寺、教学部長、南禅会館長、深見文郁様、南禅会本部長、虎山道王様、御礼のためご来社」という記録があります(業務日誌)。詳細は不明ですが、「御礼」という記述から、幸之助は同寺院に寄付をしたと思われます。
この後に、柴山氏による出張講義が開始されました。聴講していたのは、幸之助と所員の総勢5~7名です。使用されたテキストは、南禅寺発行のパンフレット『心華帖(しんげちょう)』であり、これは『法句経』という古代インドの仏教経典からいくつかの言葉を採録したものでした(※1)。南禅寺は禅宗(臨済宗)に属していますが、講義の内容は必ずしも特定の宗派に限定されていません。
出張講義のスケジュールと主な内容を表にすると以下のようになります。
幸之助は7回目の講義の後、「話しは面白く、聞けば聞くほど仏教の広さと深さが感じられた。PHPの研究も仏教の真髄を参考にすべきものと思う」と感想をもらしました(松下会長日誌)。最後の講義の後には、「管長の話しは、一貫して上手で、得るところ多々あった」と述べ、一方で10回程度の講義では「仏教の全貌については……象の鼻についての話しという感じであった」としています。
1)柴山氏は、戦前の社会運動である「真理運動」を昭和30(1955)年以降に継承した第一人者でした。この運動のシンボルともいうべき経典が、友松圓諦氏による現代日本語訳の『法句経』です(紀野一義「解説」、柴山全慶『心の本 柴山全慶』〔春秋社、1984年〕参照)。南禅寺発行の『心華帖』は、友松訳『法句経』の抄録となっていました。