松下幸之助は、各方面へ多額の寄付をしました。PHP研究所に残された資料によってその一部を知ることができ、ここでは昭和36~37(1961~1962)年ごろの、大学や寺院への寄付について取り上げます。

 

 昭和36(1961)年11月28日、幸之助は早稲田大学総長の大濱信泉氏と面会しました。「工学部を移転するにつき、約20億円募集中」(松下会長日誌)と説明を受けています。同年12月19日に「早稲田大学里見様他2名」(業務日誌)が、「工学部設置につき、わざわざ当庵まで3名おみえになり、寄付の話しを持ちこまれた」「額は相談してきめるといっておいた」(松下会長日誌)と書いています。これらののち、昭和40(1965)年6月19日、幸之助は早稲田大学から名誉博士号を授与されました(上写真)。

 

 東北大学総長の黒川利雄氏、元東北大学教授で松下電器常務の小池勇二郎氏と昭和37(1962)年4月26日に面会し、「工学部を移転するので応援してほしいとのことであったので、分に応じて援助すると約束して分れた」(松下会長日誌)と記しています。同年10月8日、東北大学を訪れて約2,500名の学生を前に講演をし、2日後にその録音を研究員と共に聞いた際、「講堂の側に松下会館が建っている。見た目よりも中の方が感じがよく、じゅうたんとか椅子などは、最高級品が使ってある」(研究日誌)と話しました。この時点で工学部の移転とは別に、東北大学に建造物を寄付していたことが分かります。

 

 また、昭和33(1958)年12月、浅草寺雷門の寄贈を決めた幸之助は、寺院にも多くの喜捨をしました。

 大阪の四天王寺に極楽門(西大門)を寄付した時は、昭和36(1961)年5月27日、骨組みの完成を祝う上棟式に出席し、「(出口常順)管長はじめ他の関係者より丁寧に応対され、感謝の意を表してくれた」(松下会長日誌)と記しました。昭和37(1962)年11月27日に落成式に出席し、「西門は思いのほか立派で鉄筋であり、永久に残るほどのものである。会社から寄付しているので、会社の名も永久に残るものと思う。意義のある仕事であった」としています。幸之助の誕生日に落成式が行われたのは、四天王寺側の意向でした。戦災によりすべての建物が焼失した四天王寺は、翌昭和38(1963)年10月15日に復建が完了し、幸之助も出席して竣工式がとりおこなわれています(PHP研究所誌)。

四天王寺極楽門.png

幸之助が寄付した四天王寺の極楽門

 

 幸之助は京都の三十三間堂奉賛会会員であり(※1)、昭和37(1962)年3月20日には中野種一郎・京都商工会議所会頭がPHP研究所を訪問し、寺債発行について相談しました。三十三間堂は、明治初期の廃仏毀釈により甚大な被害を受け、昭和初期から始まった数々の仏像や建築物の修復作業が昭和30年代にようやく終わり、いよいよ観光事業を積極的に展開していく状況でした。3,000万円の借金を寺債によって返済する計画が立てられ、幸之助は1,000万円を負担することにし、「会社と個人で引きうけたい」と返事をしています。

 

 京都の西本願寺の親鸞聖人奉賛会にも幸之助は参加しており、昭和37(1962)年3月16日に大谷光照門主と面会しています(松下会長日誌)(※2)。同年8月10日には、幸之助の母・とく枝の50回忌法要が西本願寺で営まれ、「和歌山の在所に記念品」を贈りました。

 


1)妙法院門跡の三崎良泉氏によると、昭和32(1957)年12月2日、幸之助から三十三間堂へ100万円の寄付がありました(三崎良泉編・発行『風來門自開』〔1978年〕180頁)。昭和34(1959)年7月10日以降、同寺院の「信徒総代会」において、幸之助の活動が確認できます(同書204頁)。

2)幸之助と大谷光照門主は、初期PHP活動のころから面識があり、昭和23(1948)年4月5日に対談した記録があります。『PHP友の会本部日誌 昭和23年1月1日起』54頁、『PHP新聞』第13号(同年5月15日発行)3面。