最初期PHP運動において、松下幸之助が発送した手紙の控えは、『発送文原稿綴』と題する資料にまとめられています。手紙は、和文タイプライターと手書きによるものがあり、昭和21(1946)年11月19日には、「山田富美子」という女性が「タイプ担当」として入所しました(業務日誌)。手書きの原稿はすべてくずし字で、おそらく幸之助本人の字ではなく、代筆者が書いたものと思われます。
当時の文章は候文であり、たとえば「承知(しょうち)仕(つかまつ)り候(そうろう)間(あいだ)何分(なにぶん)宜敷(よろしく)御取計(おとりはから)ひ被下度(くだされたく)御願(おねが)ひ申上候(もうしあげそうろう)」(承知しましたから、なにぶん、よろしくお取り計らいくださいますようお願い申しあげます・原文はルビなし)とか、「先(まず)は右(みぎ)御礼(おんれい)旁々(かたがた)御願(おねがい)申上(もうしあげ)度(たく)如斯(かくのごとくに)御座(ござ)候(そうろう)」(まずは、右のとおり、御礼かたがた、お願い申しあげたく、以上のとおりでございます・下写真)と書かれていました。
手紙の発送先は、懇談会に参加した人が多く、名刺を交換できた人には、ほぼ全員にお礼状を送っていたようです。その他、未刊行の論文を送ってくる人(昭和22〔1947〕年4月17日づけ)、PHP友の会に入会希望の大学生(同年5月24日づけ)、自作の和歌を送ってくる人(同年6月5日づけ)などにも、幸之助は丁寧なお礼状を送っていました。
昭和23(1948)年以降に発送された手紙は、『所長発信簿』という資料にまとめられていて、すべて「です・ます調」で書かれています。現存する資料を見るかぎり、幸之助は、昭和22(1947)年末まで、候文で手紙を書いていたようです。