PHP研究が再開されてから初めて月刊誌『PHP』について会議が開かれたのは、昭和36(1961)年11月14日のことです。「PHP誌の来年度計画について」(研究日誌)という記述があり、「基調としては現在のままで編集をすすめる」と決定され、その後もしばらく雑誌の普及について議論されませんでした。

 

 雑誌の普及について最初に討議されたことが分かるのは、昭和38(1963)年1月11日「PHP誌配付体制について 直接配付分検討」(研究日誌)という記録です。

 

 昭和39(1964)年7月に熱海会談が開かれ、8月発行の『松下電器社内時報』で髙橋荒太郎副社長(当時)は社内に「徹底した合理化」を指示しており(※1)、これを受けて樋野正二経理本部長(当時)は、「管理費用・販売費用の削減」を全社員に要請しました(※2)。『PHP』の部数は同年9~11月、3カ月連続で減少していて、当時のPHP研究所は「松下電器の経費削減の影響」と分析しています(※3)。

 

 しかし『PHP』の部数は、昭和40(1965)年1月発行の第200号から一転して飛躍的に伸びました。資料には「松下電器に対するPHP購読が新年号より毎月15,000部加わり、主としてショップ店に配付される事になった」(PHP研究所所誌)と記録されています。交通事情の悪化によってこの年の正月から初荷行事が行われなくなったこともあり、松下電器は関係各社とのきずなづくりのために、『PHP』を積極的に活用し始めました。

 

 同年の3月発行の『PHP』第202号は、発行部数が60,000部、完販部数が51,826部であり、活用先の内訳は下記のとおりです。

PHP部数内訳表

PHP部数内訳グラフ

 

 当時は松下電器の本社、営業本部、販売会社で全体の75%を占めていました。同年3月には、「まず松下電器関係先、特に関係会社に働きかけを行う」(PHP研究所所誌)と決定され、同年5月発行の『松下電器社内時報』第301号には、同紙で初めて『PHP』の広告が掲載されています。「一日教養・一日休養/そのひと時のための/心暖まる人生随想集」というコピーがつけられ(写真)、同年4月16日から松下電器で始まった完全週休2日制を意識した普及も行われました。

PHP広告

 

 同年8月21日には、早くも「百万部売るための編集会議をしたい」(研究日誌)という記述があります。昭和41(1966)年1月5日、松下電器とは別にPHP研究所独自の方針発表が初めて行われ、研究所創設20周年になる同年11月3日までに20万部という目標が掲げられました(PHP研究所所誌)。同年3月18日の第56回朝食会では、改めて松下幸之助が「昭和45年までにPHP100万部達成しよう」(PHP研究所所誌)と言った記録が残っています。

 


1)『松下電器社内時報』第284号、1面、昭和39(1964)年8月1日発行。
2)同、第287号、1面、昭和39(1964)年9月15日発行。
3)『PHP研究所所誌』126頁。