戦前から和歌山県人会で交流があった元海軍大将の野村吉三郎氏は、松下幸之助が最も尊敬した人物の一人でした。PHP研究所の記録にも、しばしば野村氏の名前が見えます。
野村氏はPHP活動について、最初期には憂慮の念を抱いていました。「GHQとしては(公職)追放令該当者のことを特に厳重に注意して居る」とか、「PHPを軽率に持出すことはうっかりすると(GHQから)ピシャリとやられる恐れがある」(※1)と、幸之助に忠告した記録が残っています。しかし、昭和22(1947)年6月10日と20日に、東京のNEC本社で開かれた第1回、第2回PHP東京懇談会に参加し、「話しをきいてみてどうやら少し誤解してゐたらしい」(※2)と述べ、以後は積極的に協力することになりました。同年ごろに作成されたとみられるPHP友の会の『本部役員名簿』では、「顧問」になっています。東京都文京区湯島の「ラヂオ産業館」で昭和24(1949)年7月13日に開催された第4回東京PHP定例研究講座にも出席しました(友の会本部日誌)。
その後、昭和28(1953)年3月24日、幸之助たっての願いで日本ビクター株式会社社長に就任したことは周知のとおりです。
真々庵における研究活動再開以降では、昭和36(1961)年12月26日、幸之助は「野村吉三郎氏が前立腺肥大症で入院しているので、病院に見舞いに行った。案外元気であって、手術すれば直るということであったから、十分養生するように言って帰った」(松下会長日誌)と書いています。しかし、昭和37(1962)年10月12日には、野村氏の子息が真々庵を訪問し、病気を理由にビクター社長を退く意向を伝えました。幸之助は同月22日、「ビクターの野村社長を見舞う。社長退任問題でよく話しをし、辞任の希望を入れ承諾した。その代り松下の顧問ということで、引受けてもらいたいと頼んだところ、喜んでくれた」(松下会長日誌)と記しています。
その後は一時退院しますが、昭和39(1964)年5月8日、86歳で逝去。同月15日に青山斎場で本葬が営まれ、幸之助は「日本ビクター株式会社会長」として弔辞を読みました。その逝去は「まことに国家的損失と言うべき」であり、「大きな支柱を失った思いで、悲しみの極」と表現しています。さらに「政府から直ちに勲一等旭日桐花大綬章」が贈られたことや、葬儀において「海上自衛隊より儀仗兵の参列」「アメリカ海兵隊よりも儀仗兵の参列を頂いている」と紹介しました。
1)『東京PHP運動概況報告』81頁。
2)同311頁。