真々庵において研究活動を再開してからしばらくの間、研究テーマは宇宙根源の力や宗教、人間性などが中心でした。松下幸之助は昭和38(1963)年8月13日の研究会で、「社会面から追求していかないで……人間性から追求していく」(研究日誌)と言っています。

 

ところが昭和40(1965)年2月2日「国会のやり方は言語道断である。非生産的。次には国会のあり方に入りたい」(※1)と言い、以後の研究会では政治に関する話題が頻繁に取り上げられるようになりました。

 

当時の幸之助は「期待される人間像審議委員」(※2)を務めていました。これは昭和38(1963)年6月24日、中央教育審議会において、荒木萬壽夫・文部大臣の名で出された「後期中等教育の拡充整備について」という諮問に答えるための委員会であり、荒木大臣と幸之助は以前から面識がありました(※3)。約2万字の文章を3年3カ月以上かけて作成し、昭和41(1966)年10月31日に答申が出されています。昭和40(1965)年当時、いまだに答申が出されていなかったことも、幸之助が政治のあり方を批判した理由の一つのようです。

 

昭和40(1965)年8月9日の研究会では「審議会の数が現在非常に多い。趣旨は良いが運用には問題がある」とか、政治を効率よく進めるために「政治の総合研究所を設けるべき」(研究日誌)と言っています。この時の幸之助の言葉を中心に、同年9月15日づけで『政治に生産性を!』という20頁のパンフレットが発行されました(上写真)(※4)。パンフレットで幸之助は「本格的な政治研究所をつくれ」と主張し、その内容は「人間の本質にのっとった実践的臨床的政治の研究でなければならない」(※5)としています。審議会については「何でもかでもこの審議会にかけようとする傾向がある」「金と時間がかかって仕方がない」(※6)と批判しました。

 

同年9月26日、横浜市体育館で開催された日本青年会議所全国大会における幸之助の講演(※7)の際に、このパンフレットが出席者3,000名に配付されました(PHP研究所誌)。同年12月3日に真々庵で検討された「新政治研究所」の設立趣意書は、松下政経塾の原型と言うべき内容であり、講演会の反応を考慮して作成された可能性が考えられます。

 

「期待される人間像審議委員会」をめぐる動き

「期待される人間像審議委員会」をめぐる動き

 


 

1)録音№4004より。ここでは『研究日誌』から幸之助の言葉を引用しました。
2)明治神宮社務所・明治神宮奉賛会編・発行『代々木』誌12月号(1963年)では、幸之助の肩書として「松下電器産業KK会長・期待される人間像審議委員」と記されています。
3)幸之助は昭和37(1962)年9月6日、大阪の北新地で開かれた荒木萬壽夫氏のパーティーに参加し、大臣について「信念をもって、日本の文教にとり組んでいることに敬意を表すべきである」(松下会長日誌)と述べています。
4)これ以前に昭和40(1965)年8月1日の発行を目指して『これからの日本』という政治に関する52頁の小冊子を作成しましたが、最終的に完成しませんでした。
5)『政治に生産性を!』9頁。
6)同上16頁。
7)《速記録》№0707①所収。講演のなかで幸之助は「金と時間のかかる政治をやめてもらって……必要ないものは皆民間に任してもらう。そうしたら非常に能率上がっていく」と説きました。『政治に生産性を!』は、講演の前にあらかじめ配っています。