昭和41(1966)年8月24日、真々庵で行われた研究会で松下幸之助は「この前に野田(一夫)さんに聞いたけど、……大学生が十人寄って将来の話をしたり自分の希望を語ったりする時に一人として政治家を志す者がない」(速記録№4130)と語っています。

 

 野田氏の話は特に印象に残ったのか、同年10月に発行された『新政経』誌第192号掲載の「真々庵夜話(51)」で「ひとごとではない」と題してこの話を書きました。『実業の日本』誌同年10月15日号でも「あたらしい日本 日本の繁栄譜 22」で政治家を志す若者が少ないと警鐘を鳴らしています(※1)。

 

 一方、新政治経済研究会は昭和41(1966)年、実質的な終焉を迎えました。これはサンフランシスコ講和条約発効に合わせて幸之助が起こした運動であり、日本に民主主義を定着させることを目的としていました。この運動を率いていた清水重夫氏が事務局長を退任するに際し、同年11月8日、慰労の会が東京のホテルオークラで開かれています。八木秀次(元大阪帝国大学総長)、中村建城(元大蔵省主計局長)、井上縫三郎(元毎日新聞論説委員)、愛川重義(元読売新聞論説委員)、土屋清(産経新聞役員)等の各氏が出席しました。幸之助はこの席で、松下政経塾の原型となる構想を発表しており、出席していた拓殖大学総長の矢部貞治氏は、次のように日記に書いています。

 

「会の席上、松下さんが、よい政治家をつくるために新日本政治研究所というものを設立したらどうかと、趣旨まで印刷してもってきて、熱心に構想を話していた。僕はあまり賛成ではないが、とにかく年をとっても構想はハツラツとしているのに敬意を表する」(※2)

 

 この時は参会者に好評ではなかったこともあって、政治家を養成する機関は設立されませんでした。新政治経済研究会の事務局は解散し、PHP研究所へ吸収される形をとっています(※3)。

 

 それでも幸之助は、『PHP』誌第232号(昭和42〔1967〕年9月発行)掲載の「思うまま」に「政治家に魅力を」と題して書き、「政治家も国民も、どうすればすぐれた若い人びとが進んで政治家を志すようになるかということを、いまこそ真剣に考え合ってゆかなければならない」と、同じ主張を繰り返し強調しました。

 


 

1)『PHP』誌第222号(昭和41〔1966〕年11月発行)にも再録。
2)『矢部貞治日記 躑躅の巻』(読売新聞社、1975年)734頁。矢部氏は、創設間もないころから約8年間、PHP研究所で有償の顧問を務めていました。
3)事務局は解散したものの、慶應義塾大学の学生による「慶應新政治経済研究会」はしばらく存続しており、清水氏は同会の顧問として昭和43(1968)年8月29日に「第8回慶應大学新政経主催夏季セミナー」に参加しています(清水重夫『万年青の実』〔非売品、1969年〕224~226頁)。