国立京都国際会館は、世界に通用する国際会議場が日本にも必要であるとして、岸信介内閣が昭和32(1957)年11月8日に建設を閣議決定しました。理事長には「海外にも名の通った実力者」(※1)がよいとして松下幸之助に白羽の矢が立ち、昭和41(1966)年2月1日、初代理事長に就任しています(業務日誌)。

 

 幸之助は、同じ明治27(1894)年生まれの経済団体連合会・名誉会長の植村甲午郎氏(上写真)に副理事長(※2)の就任を依頼しています。さかのぼる昭和37(1962)年11月10日、植村氏を真々庵に招待した際、足の悪い妻が同伴していて、研究所側の用意がまったくできていなかったことがありました。しかしそうした心配をよそに、植村氏自身が妻を気づかっていたので幸之助は感銘を受け、以後、植村氏のことを「心の友」と思っていたということです(※3)。幸之助の依頼とあって、就任を即答で快諾した植村氏は、昭和41(1966)年4月6日、高山義三・国際会館館長と共に再び真々庵に来庵しました(業務日誌)。

 

 昭和41(1966)年4月26日、幸之助は朝に真々庵に来て真々茶室でお茶をたて、国際会館へ向っています(業務日誌)。同日夕方に再度来庵して所用をすませた後、夕食へ出発しました。以後、京都に来ると、同様のスケジュールで行動する日がしばしば記録されています。

 

 国際会館の開館祝賀パーティーは、昭和41(1966)年5月21日に開催されました。この日以降、中江卯太郎・国際会館事務局長がしばしば来庵しており(業務日誌)、幸之助に種々の報告をしていたと思われます。同年7月24日には和歌山県人会の音無会が国際会館で開かれました(下写真)。

 

音無会

昭和41年7月24日、国際会館で開かれた音無会
(『音無会三十年の歩み』10頁より)

 

 昭和42(1967)年1月20日、「国際会館中江局長、山本氏、京都市熊本氏、安田氏、仙アート堤氏」(業務日誌)が来庵し、幸之助が国際会館に寄贈される茶室について懇談しました。茶室「宝松庵」は同年6月3日に起工、11月11日に竣工しています。
 幸之助は昭和57(1982)年11月26日、米寿を機に理事長を退任しました(※4)。

 


 

1)財団法人国立京都国際会館編・発行『国立京都国際会館20年のあゆみ』(1986年)29頁。
2)正式には、この時はまだ「副理事長」の役職はなく、幸之助の話から、「理事」を務めた植村氏が事実上の副理事長だったと考えられます。植村氏は、昭和41(1966)年1月31日に「理事」に就任し、「副理事長」の役職が正式に設定された昭和50(1975)年6月4日に改めて就任しました(昭和52〔1977〕年12月31日まで)。下記注3参照。
3)《速記録》№1733(未定稿)。植村甲午郎伝記編集室編『人間・植村甲午郎―戦後経済発展の軌跡』(サンケイ出版、1979年)435~438頁。
4)前掲、『国立京都国際会館20年のあゆみ』32、68頁。