京都市長、国立京都国際会館館長を歴任した高山義三(ぎぞう)氏(1892~1974・写真)は、京都市の観光事業を中心に、松下幸之助と長年にわたって交流を持った人物でした。晩年に高山氏が記した自叙伝には、幸之助が巻頭言を書いており、「出処進退を誤らない人であり、有言実行の人である。さらにまた信念の人であり、情誼に厚い人でもある。そして、つねに非常に国をうれえておられる」(※1)と述べています。プロテスタントのクリスチャンであり、弁護士業をへて昭和25(1950)年2月に京都市長に当選しました。

 

 PHP研究所の記録で最初に名前が見えるのは、昭和36(1961)年10月31日、白石右京氏(京都新聞社社長)、立石一真氏(オムロン創業者)、石川芳次郎氏(京福電鉄会長)ら「京都在住知名士」(松下会長日誌)が真々庵に来庵して昼食会が催されました。翌昭和37(1962)年5月31日には、高山市長を中心とした交流会である青松会が発足し、第1回会合が真々庵で開かれています。幸之助は「裏千家の主招によって高山市長を中心として懇親会を作るということで、第1回会合を真々庵で行った。......今後この会の名前を青松会と名付けることに一決し、年に4回位、開くことになった」(松下会長日誌)と書きました(※2)。

 記録によると、昭和40(1965)年までに以下の青松会が真々庵で開催されています。

 

昭和40年までに真々庵で開かれた青松会(『業務日誌』より)

青松会

 

 京都市長としては、岡田戒玉・醍醐寺管長の協力を得て、昭和31(1956)年10月に「観光税」を導入したことでも知られています。任期最後の4期目は、国際会館を京都に招致することに尽力しました。昭和41(1966)年2月4日に任期満了で退庁すると、同月15日、京都市の観光事業に熱心であった実業家の奥山市三氏(※3)と共に来庵しています。

 

 幸之助は、昭和41(1966)年2月1日、国立京都国際会館の初代理事長に就任しました(第58回参照)。就任は「高山さんと組んで、高山さんが館長をして下さるなら」(※4)という条件でした。高山氏は館長に就任すると、市長時代よりも頻繁に研究所の記録に登場することになります。多くは来所の記録があるだけで詳細は不明ですが、同年7月11日には将棋の大山康晴名人を連れて訪問しました。

高山義三と松下幸之助

 高山義三氏と幸之助
(『わが八十年の回顧』297頁より)


 昭和49(1974)年に高山氏が没した後も青松会は継続され、真々庵でたびたび開催された記録が残っています。

 


 

1)高山義三『わが八十年の回顧』(高山寛発行、1971年)、巻頭言「高山義三さんのこと」より。
2)オムロン創業者の立石一真氏は、青松会のことを「十人ばかりの京阪の俗人が青松会という『松下さんを遊ばす会』をつくって、ときどき松下氏の京都・南禅寺にある真々庵を借りて、先斗町のきれいどころをあげ、松下氏を囲んで清遊することにした」と述べています。福田赳夫・堺屋太一ほか著『「松下幸之助全研究」シリーズ―5 素顔に迫る 72人のエッセイ』(学習研究社、1982年)141頁。
3)奥山市三氏は、松竹株式会社社長を務め、来庵時は比叡山国際観光ホテル(現ロテルド比叡)社長でした。イギリス国教会のクリスチャンで、京都市観光協会副会長、国立京都国際会館常任理事なども歴任しています。
4)前掲『わが八十年の回顧』297~298頁。