熱海会談が開かれた昭和39(1964)年7月以降は、PHP研究所の研究活動にさまざまな変化が表れるようになりました。これまでのような活動ができなくなった面も見られ、やがて京都駅八条口への移転が検討される要因になりました。

 

 昭和39(1964)年8月10日、『租税に思う』というパンフレットが作成されています。このパンフレットは、どのように配布したのか特に資料は現存しておらず、あまり活用されなかったようです。同年11月18日に松下幸之助は「聖徳太子の十七条憲法と四天王寺縁起をパンフレットにして100万部くばりたい」(研究日誌)と言っていますが、途中まで作成された形跡があるだけで、最終的に完成しませんでした。昭和40(1965)年6月8日、憲法のパンフレットを「100万部刷って10円で配りたい」(PHP研究所誌)と言っていた計画も、立ち消えになっています。

 

 昭和41(1966)年12月1日には、「PHPのことば」をまとめた『PHPのことば集』が刊行となりました(左写真)。それまで、昭和29(1954)年1月1日にも『PHPのことば集1』(右写真)を作成したにもかかわらず、これらを普及させる活動は特に記録されていません。昭和42(1967)年1月6日には年間目標として「人間宣言を完成させよう」(研究日誌)と言ったものの、幸之助の体調不良もあり、後年になってから研究が本格化することになります。

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 書籍の制作も考えられ、昭和41(1966)年10月11日には「PHP叢書をつくろう」(研究日誌)と幸之助が言った記録が残っています。昭和42(1967)年1月27日「PHP海外版をやろう」「アメリカの人に90%原稿もらって、あとの10%だけ日本のPHPから原稿をのせる」と具体的に述べました。これらも後年になってから、活動に移ることになります。

 

 また、昭和40(1965)年ごろから、幸之助は真々庵に来庵する日数が増えた一方で、研究会の日数は増えておらず、来賓の接待や打ち合わせのために訪問する機会が多くなりました。真々庵は、松下電器の迎賓館としての役割が大きくなっていきます。京都駅八条口にビルを建設してPHP研究所を真々庵から移転した背景には、所員が増えたことと共に、真々庵の役割の変化もあったようです。

 


 

1)「研究会日数」は、所員のみで開いた研究会は数えていません。「来庵日数」は、午前中に来庵して外出し、午後に再び真々庵に戻った場合でも、1日として数えました。