昭和40(1965)年12月3日、松下幸之助はPHP研究所(京都東山山麓・真々庵)における研究会で、松下政経塾の原型となる「新政治研究所」について初めて検討しました。この時の録音が残っています(録音№4043・写真)。リールテープの箱の裏側には「抹消可」と記されていて、必ずしも録音を保存する予定ではなかった様子がうかがえます。
録音によると、一部の所員は研究会の前に、あらかじめこの構想について幸之助からおおまかな説明を受けており、原案を幸之助の秘書が作成しています。原案では、「新政治研究所」に毎年100名の大学新卒を採用し、「任期」は10年としていました。任期後は地方政治に立候補することを義務づけ、所属政党は自由としています。内容は全体的に、当時の政治を批判する姿勢が濃厚でした。
幸之助はこの原案をあまり評価せず、「近代的にして古い伝統の上に」立った名前の機関にしたいと述べ、募集する年齢は25歳まで、学歴は不問、「10年て言うことやめとこう」「100名って多いな」「まあ2、30人やな」と言っています。昭和27年に創始した新政治経済研究会とは全く別のものであるとか、所在地については「本山は京都で出店は東京」と述べました。京都市財界の集まりである「朝飯会(あさめしかい)」で他の財界人に意見を聞いてみると述べ、皆から厳しく批判されたらやめると話していました。
昭和40(1965)年12月8日の研究会(録音№4044)では、幸之助は7日の「朝飯会」で秘書に趣意書を音読させたと言っています。倉敷レイヨン(現クラレ)の大原総一郎氏がもっとも強く賛同し、上枝一雄・三和銀行頭取、芦原義重・関西電力社長も賛成しました。この時点では、幸之助が資金を供出するのではなく、一般からの募金としていたことも特徴的で、大原氏は資金を出すと述べたということです。
8日の研究会では引き続き、趣意書を読み上げて検討がなされています。この結果、だれでも政治家を志すことができるように研究所を設立するという点に内容が集約されていきました。募集要項も作成され、この時点では「30歳以下の志ある青年」が応募条件、「研究所員」には5年間の「勤務」を義務づける案となりました。