PHP研究所京都本部の社屋は、昭和42(1967)年11月、京都市南区西九条北ノ内町で竣工を迎えました。さかのぼって京都駅八条口(南口)の歴史を踏まえると、松下幸之助がこの地にビルを建設したことは地域の開発において先駆的だったといえます。

 

 まず明治10(1877)年2月、大阪・神戸間の鉄道が京都まで延びて京都駅が開設されました。大正3(1914)年8月に駅と線路が南側に移動し、ほぼ現在の場所に新築されています。当時はまだ、駅の南側一帯には田畑が広がっていました。

 

 現在のイオンモールKYOTOの場所(鳥居口町)に明治時代、紡績工場が建設され、明治44(1911)年3月、鐘淵紡績(後のカネボウ、現クラシエ)が買収し、「下京工場」としています。この地には、南北に西洞院(にしのとういん)川が流れていて(上写真)、繊維工業の利用に適した水質でした。同工場は社員の娯楽施設まで完備するなど、「家族主義経営」のモデルケースとして、大正時代には広く知られました。

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鐘淵紡績から購入した工場の建屋(※2)  

 

 昭和19(1944)年5月、松下電器は同工場の土地と建屋を買い取って電球と真空管の工場にしています(上写真)。戦後の昭和27(1952)年12月にフィリップスとの合弁で松下電子工業が設立されると、昭和29(1954)年3月に高槻市の工場が完成するまで、1年3カ月ほどのあいだ同社の本拠地となりました。本社機能と生産の主力が高槻市へ移った後は、「松下電子工業京都工場」となり、昭和40(1965)年ごろには830名が勤務しています(※3)。

 

 昭和39(1964)年10月、新幹線の開通で京都駅に八条口が新設されるに伴い、駅南側の開発が始まりました。蒸気機関車の時代が終わって電車の時代となり、線路の近くでも汽車の煙が来なくなったため、工場北側の空き地であった北ノ内町の土地利用が可能になります。ここにPHP研究所の社屋を建てる計画が、進められることとなったのです。

 


 

1)『最新京都市街全図』(日本地図株式会社、1949年)より。
2)『光とエレクトロニクスで未来を拓く―松下電子工業の歩み:1952-1993』(松下電子工業発行、1994年)19頁。キャプションは「紡績工場独特のノコギリ形屋根をそのまま残して電球工場に転用」としています。
3)松下電器社内報『松風』昭和40(1965)年6月号、26頁。