英文版『PHP』誌が昭和45(1970)年9月に創刊となったことを受け、翌10月に松下幸之助は海外の知識人と対談する機会を設けました。続けて複数の国外の有識者と対談したことは珍しく、改めて海外の様子を学ぶ目的があったようです。
アメリカの未来学者でハドソン研究所の創始者であったハーマン・カーン氏(Herman Kahn)とは、松下電器本社において昭和45年10月10日に対談しました(写真・速記録№1218)。これ以前にも、まず真々庵において昭和43(1968)年10月30日に初めて会っており(速記録№1034、松下幸之助発言集13)、さらに昭和44(1969)年4月24日に松下電器本社で2回目の面会。大阪万博松下館において昭和45年4月12日、3回目の対談を行なっています(速記録№1194)。
物理学と数学を専攻したカーン氏は、大正11(1922)年アメリカ合衆国ニュージャージー州生まれ。日本は西暦2000年までにGNPでアメリカを追い抜き、世界一の経済大国になると予想して注目を集めました。最初の対談ではカーン氏が日本について多く質問しているのに対し(※1)、3回目の対談では中東問題の見通しなど、幸之助の方からカーン氏に多くの質問をしています。
ハーマン・カーン氏と幸之助の面会
4回目となる昭和45年10月10日の対談は、松下本社で行なわれ、10月に英文版『PHP』誌が創刊されたことが話題となりました。後半は幸之助が持論をカーン氏にぶつけていて、新しい人間観が必要だと主張しています。これに対してカーン氏は、それは宗教の問題ではないかと述べるだけで、あまり関心を持たなかったようです。
カーン氏とは、昭和46(1971)年4月6日に国立京都国際会館で開催されたハドソン研究所国際会議で5回目の面会をしています(速記録№1270)。
1)幸之助の著書『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』では、架空の人物として、先進国から来た「ハーマン氏」が、日本の状況について熱心に質問しています。日本について高い関心を持ったハーマン・カーン氏が、モデルであった可能性が考えられます。