PHP研究所は社会活動の一環として、昭和49(1974)年10月から3年間、広瀬友久氏による映画『青い鳥』の上映活動を支援しました。広瀬氏は明治28(1895)年、長崎県の生まれ(※1)。明治大学商学科を卒業後、第三銀行に入行し、10以上の企業で取締役などの重役を歴任しています。

 ベルギーの詩人モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck)の代表作『青い鳥』は、大正8(1919)年にフランスの映画監督モーリス・トゥールヌール(Maurice Tourneur/モーリス・ターナー)によって映画化され、翌大正9(1920)年、日本に輸入されています(※2)。無声映画だったため、画面を説明する二十数名の弁士が文化団体「青鳥会」によって養成され、全国各地で上映活動を行ないました。広瀬氏は、このころから既に青年弁士の一人として活躍しており、映画は絶大な人気を博して戦前に400万人を動員しています(※3)。


 太平洋戦争の勃発によって上映会は催されなくなり、フィルムも散逸。戦後、広瀬氏はフィルムを探し続けた結果、ついにニューヨークで発見し、非営利の上映なら無期限で上映権を委任するという好条件を獲得して、昭和47(1972)年末、日本へ再輸入することに成功しました(※4)。


 既に退職していた広瀬氏は「青い鳥幸福会」を設立して各地で弁士を務めながら上映活動を展開し、昭和49(1974)年7月19日、PHP研究所で上映した記録があります(※5)。同年10月1日から研究所は所内に事務所を設け、広瀬氏の活動を支援することになりました。映画は昭和51(1976)年11月末までに全国176カ所で101,971人を動員しています(※6)。この活動の一環として、原作:メーテルリンク/解説:広瀬友久『幸福の青い鳥』(PHP研究所、1974年)が発刊されました。


 独特の語り口で人気を集めた広瀬氏は、昭和52(1977)年4月10日に逝去、享年82。翌年4月に高さ1メートルほどの石碑がPHP研究所京都本部の敷地内に建てられました(※7)。現在でも京都本部の入り口に向かって右側に石碑が残されており(写真)、「幸福の青い鳥の碑/空に青い鳥がいる/空そのもののように青く/これを捕えた人には/幸福がくるという/広瀬友久」と刻まれています。



1)広瀬氏の経歴は、菊池新・青柳嘉幸編『青い鳥の伝道者―広瀬友久氏を憶う』(広瀬友久氏追悼記念文集刊行会発行、1980年・私家版)43~45頁。

2)同45頁。『青い鳥』は、これ以前から異なる監督によって何度も映画化されていますが、広瀬氏が使用したのはモーリス・トゥールヌール監督の映画のみだったようです。

3)同52頁。

4)同56頁。

5)同92頁。

6)同95頁。

7)同63頁。