昭和49(1974)年9月9日、大阪の四天王寺において、茶人であった矢野宗粋氏(1893~1974)の告別式が執り行なわれました。享年81。松下幸之助は弔辞を読んでいます。
矢野氏は裏千家の茶人であり、社団法人大阪茶道会の理事長を務めました。昭和14(1939)年、幸之助が兵庫県西宮市に建てた自宅に茶室を設けたことが縁で、交流を持つようになったということです。
さかのぼる昭和21(1946)年11月3日のPHP研究所開所式に矢野氏も出席しました。初期のPHP活動では、昭和22(1947)年3月2日の第93回懇談講演会で講師を務めました(業務日誌)。記録によっては「矢野所員」とあるので、この時すでに研究所の所員になっていたようです。新政治経済研究会にも参加しており、昭和27(1952)年9月4日の「関西第2回運営参与会」に出席した記録があります(新政経ニュース)。
京都における幸之助の私邸・楓庵において、南禅寺に隣接する日本庭園を幸之助が買い取り、「真々庵」と命名した昭和36(1961)年4月30日、取引の席に矢野氏の姿がありました(業務日誌)。同年8月18日の真々庵開所式にも出席しています。
毎月18日の朝食会(現在の真修会)に参加するなど、所員として活動を続け、昭和43(1968)年9月「矢野宗粋氏を非常勤嘱託より外す」という記録があります(※1)。形式上はこの時に退所となりましたが、以降も記念式典や研究会に参加することがありました。平日は家族と離れて幸之助と共に松下病院で起居し、夕食は幸之助と二人でとることも多かったようですが、お茶の話はあまりしなかったとのことです(速記録№1146)。昭和49(1974)年8月16日、骨董商の善田昌運堂と一緒に八条口のビル(旧京都本部ビル)に来所したことが、最後の活動記録となっています。
1)昭和43(1968)年『PHP研究所所誌』9月24頁。