全盲の鍼灸師であった御井敬三氏の尽力により、昭和46(1971)年4月に財団法人飛鳥保存財団(現公益財団法人古都飛鳥保存財団)が設立され、松下幸之助が初代理事長に就任しました。翌年に奈良県明日香村で高松塚古墳が発見されています。

 その後も妻の御井清子氏が、昭和47(1972)年2月17日、4月25日にPHP研究所に来所した記録があります。しかし昭和46(1971)年12月の『人間を考える』の脱稿以降、幸之助は体調を崩していたので、しばらく目立った活動はありませんでした。


 体調が回復し、昭和49(1974)年に入って徐々に活動を再開し始めた頃、奈良県明日香村名誉村民に選ばれることになりました。同年3月3日、奈良県明日香村立聖徳中学校で開かれた「明日香村名誉村民顕彰式」に幸之助は出席しています(速記録№1391)。明日香村に関する活動も再開し、昭和51(1976)年6月4日、幸之助は霊山歴史館で開催された「高松塚壁画模写展示会」に出席しました。日本画家の前田青邨(せいそん)氏が監修しており、翌日京都市美術館で開かれた前田正邨展でテープカットをしています。明日香村に高松塚壁画館が建設され、昭和51(1976)年10月21日、竣工式が執り行なわれており、幸之助も出席しています(写真)。


 昭和57(1982)年末から翌年にかけて、幸之助は米寿を機に多くの公職を退いており、飛鳥保存財団理事長もこの時に退任しました。