PHP研究所がまだ真々庵にあった昭和三十年代のことである。幸之助は、非常に懇意にし、尊敬もしていた経営者の葬儀が翌日にあるということで、友人代表で読む弔辞の作成に取り組んでいた。研究部員も手伝って何度も何度も検討し、幸之助も納得して、心を尽くした弔文ができあがった。さっそく毛筆の達者な女性所員が和紙に清書をして、弔辞は幸之助に手渡された。

 

 ところがその夜、弔辞を読む練習をしていた幸之助は、友人に対するあれもこれもの思いがさらにつのってきて、この弔辞ではどうしてももの足りなくなった。しかし、時間もなく書き直しはできない。

 

 そこでハサミで文面をつぎはぎしての修正を試みた。が、うまくいかず、ついにはズタズタになって収拾がつかなくなってしまった。幸之助は、晩遅くなってから、やむを得ず研究部の責任者を呼び出した。

 

 あいにく筆が苦手だった責任者は、入所してまもない若い部下を車で下宿先まで呼びに走った。寝入りばなを起こされた部下は、真夜中の呼び出しに驚きつつ、眠い目をこすりながら車に乗り込んだ。お茶室に小さな赤い文机が用意され、清書が始まった。

 

 「“昼間あれだけ検討したのに変えるとは”とか、“真夜中に呼び出されてかなわんな”という思いがまったくなかったわけではないが、松下所長の、その人に寄せる思いというか、感謝というか、誠実さというか、そういうものに深く感動して、一字一字思いをこめて書いたのを覚えている」

 

 のちにPHP研究所の幹部となった、青年所員の貴重な思い出である。