昭和三十七年十月、松下電器は、台湾松下電器を現地資本と合弁で設立した。人員は百人あまり、主製品はラジオとステレオ。しかし、当初、経営は非常に厳しく、設立から約一年で資本金にほぼ等しい赤字が生じていた。

 

 出向責任者がその間の事情を報告に幸之助のところへやってきた。二十分ほど、じっと報告に聞き入っていた幸之助は、「きみ、せっかく台湾から帰ってきたんやから、ひとつみやげをやろう」と初めて口を開いた。

 

 「きみ、あんまり働きなや」
 芳しくない報告をしたあとだけに、叱咤激励されるものとばかり思っていた責任者は驚いた。

 

 「台湾松下が今、月々損を重ねているのは、責任者であるきみからすれば、たまらんことやろう。けれどもこの損は、工場が十分に稼動していない、販売網もまだできていないために出てきている損や。
 そんなときにきみな、あわてて物つくって、不良を出したときの損は大きいで。販売網もろくにできていないのに変な売り方をして、貸し倒れになったとしたら、えらい損するで。 
 だから、十分工場が稼動して、販売網も整うまでは決してあせったらいかん。あんまり働いたらいかんな」