昭和二十六年の一月から四月まで、幸之助は初めてアメリカに渡り、滞在した。そのとき、ある会社の機械工場を訪ね、四、五十歳くらいの三人の技師たちと話しあう機会を得た。いろいろと話しあううちに、技師長でないとわからないという問題が出てきたので、「一度技師長に会わせてもらえないか」と頼んだところ、出てきた技師長は二十八歳の青年であった。幸之助は、“こんなに若い人が技師長というのはおかしいな”という印象をもった。そこで技師長が座を立ったあと、三人の技師たちに尋ねた。


 「いまの技師長は社長の息子さんですか」
 「いや、三年前に入った人です」
 「あなたたちは」と尋ねると、三人とも、「もう二十年くらい勤めている」と言う。

 

 そこで、ぶしつけではあったがつぎのような質問をした。
 「あなたたちは二十年のあいだに、相当この会社に尽くしたと思います。その皆さんが、三年前に入ってきた技師長の下で仕事をすることに不愉快を感じませんか」
 「どうしてそのようなことを尋ねるのですか」
 「長年勤めているいわば会社の功労者の皆さん方が、若い技師長の下で仕事をしていてうまくいくのかどうか、疑問に思ったのできいたのです。日本では、力が非常に違えば別だけれど、そこそこの力があれば、古い功労のある人が技師長になるんです」

 

 三人の技師たちは幸之助の質問の意味がようやくわかったようであった。
 「それは松下さん、心配いりません。自分たちは二十年勤めて、確かに功績があることは事実です。けれど、自分は技師としての職責は尽くさなければなりませんが、技師長としての責任を問われることはないんです。しかし、さっきの若い技師長には、技師長としての責任が問われるんです。それでいいんじゃありませんか。いくら年が若くても、彼は技師長としての腕を見込まれて入ってきているのですから」

 

 幸之助は、アメリカの民主主義の本質は適材適所であり、それがアメリカを繁栄せしめている、民主主義こそ繁栄主義であるということを感じた。そして、帰国後の昭和二十七年、民主主義と民主政治に対する国民意識を高揚するために、「新政治経済研究会」を創設している。