あるとき、幸之助宅の蔵の中から一束の古い書類が出てきた。配線工として勤めていた大阪電灯会社時代に会社からもらった十数枚の昇給辞令や、給与の明細書、退社したときに受けた退職金の支給辞令などが一枚も紛失せずに出てきたのである。

 

 そのなかには、幸之助が大正六年に電灯会社をやめて、翌七年に松下電気器具製作所を開くまでの一年間に何回か利用した近所の質屋の通い帳などもまじっていた。

 

 大正六年ごろの幸之助はといえば、独立して苦心の末につくったソケットは完成したものの、大阪じゅうを十日間駆けずりまわって、売れたのはようやく百個ほど。十円足らずの売上げを得ただけで、資金も乏しくなり、あすの生計さえどうなるかわからないというほどの困窮に陥っていた。

 

 その困窮のほどは、その通い帳のなかに、妻むめのの着物や帯から指輪まで質入れされたと記されていることからも想像できる。

 

 またその当時のこととして、幸之助が風呂に行くにも、風呂銭がないので、むめのがそれとなく話題を仕事のことにそらし、風呂のことを忘れさせたという逸話も残っている。