大正七年に松下電気器具製作所を創設し、ようやく軌道に乗り始めた翌八年の暮れのことである。大阪電灯会社時代の知人がひょっこり訪ねてきて、幸之助に一つの提案をした。

 

 「松下君、きみが会社をやめて商売を始めたと聞いたが、その後噂に聞くと、なかなかうまくやっているようだ。しかし、きみが一人でコツコツやっていくより、この際、相当の資本を他から求めて、大きく組織的にやってみたらどうか。ぼくの親戚や知りあいは相当の資産家ぞろいだから、五万や十万の金はすぐにできる。ぼくといっしょにこの松下工場を会社組織にして大いにやろうではないか」

 

 知人の熱心な説得に、確かに、自分一人で十の仕事をするよりも、二人で会社をつくって三十の仕事をするほうがよいのではないかと、幸之助の心は動いた。それで、「よく考えてみよう。そして、四、五日したらきみの家へ返事をしに行こう」ということで、その日は別れた。

 ところが、考えれば考えるほど、このまま一人でやっていくほうがよいのか、会社組織にしたほうがよいのか、決心がつかない。二日たち、三日たっても、なお思い悩むばかりである。結局心の決まらぬまま四、五日たって、知人の自宅に足を運んだ。

 知人は、幸之助の顔を見るなり、

 

 「松下君、決心がついたか。きみさえ決心してくれれば、ぼくはあすにでも会社に辞表を出す。そしてすぐ故郷へ帰って十軒ほど親戚を訪ね、一口五千円ずつ、五万円は調達してくる」

 

 そう言って、幸之助の決断をしきりにうながした。商売を始めて一年あまり、まだ確固とした信念もなく、自分なりの将来の見通しもないまま、知人の熱心な言葉につり込まれた幸之助は、半信半疑のまま承諾を与えた。

 けれども、家へ帰って静かに考え直してみると、承諾を与えたことが少し早まったことのように思えてきた。一人でやったほうがいいか、会社組織でやったほうがいいかということばかりにとらわれて、肝心のその知人の性格なり、手腕、人格などについてあまり検討していなかった。ほんとうに知人が信頼できる人なのか、また実際に多額の資金がそう簡単に集められるのかを考えてみると、やはり今までどおり一人でやっていくほうがよいのではないか。しかしいったん約束したことを、いまさらやめるとは言い出しにくい。困った困ったと思いながら、二、三日が過ぎ、少し心が落ち着いたところで、もう一度会ってゆっくり話しあおうと考えた幸之助は、思い切って知人の家を訪問した。

 

 ところが、驚いたことに、その人はすでに亡くなっていた。奥さんにきくと、幸之助と別れたその翌日から急性肺炎にかかり、二日ほどで亡くなったという。あなたのほうへお知らせするにも住所がわからず失礼しました、ということであった。

 幸之助は呆然とした。そして人生のはかなさというものをつくづく感じた。こうしてこの話は自然解消となったが、「もしこの話が成立していたならば、おそらく今日の松下電器はなかったであろう」と、後年、幸之助は述懐している。