昭和三十九年から四十年にかけて、電機業界は深刻な不況に陥り、松下電器の販売会社や代理店のなかにも赤字経営に落ち込むところが激増した。
“このままではいけない。このままでは松下電器だけでなく、業界全体が疲弊してしまう”
幸之助は、当時会長に退いていたが、病気療養中であった営業本部長の代行として再び第一線に立った。そして、混沌としている業界の姿勢を正すため、販売制度の改革に不退転の決意で臨んだ。
各地の販売会社や販売店の集まりにみずから出向き、趣旨を説明し、協力を求めてまわった。必ずしも賛成の人ばかりではなかったが、根気よく説得を続けた。脈が結滞することもあり、幸之助にとって、苦しいときであった。
そんなある日、幸之助は、秘書に、「浪花節に『紺屋高尾』というのがある。それを聞きたいからレコードを買ってきてくれ」と頼んだ。秘書はそのレコードを入手、幸之助に手渡した。
「紺屋高尾」というのはこんな話である。
ある日、紺屋の職人、久どんは江戸吉原の高尾大夫の道中を見て、その美しさに心を奪われてしまう。高尾大夫といえば、江戸の遊廓吉原のいわばナンバー・ワンである。久どんはなんとか一夜の情けにあずかりたいと深く心に決め、三年間飲まず食わず働いて、十五両をためる。十五両といえば大金であるが、それを一夜で、見事大夫のために使い果たしてしまう。
幸之助は若いころにこの話を聞いたとき、“自分はそんな潔い真似はできん。久どんのほうが自分より上だな”と思ったという。はたから見ると、ばかばかしいと思われることでも、志を立ててそれをやり抜く心意気、自分が“これ”と決めたものには命をかけて邁進する心意気に感動を覚えたのである。
幸之助は、販売会社や販売店との交渉が難航するなか、もう一度この話を聞き、久どんの心意気に、ともすれば弱気になり、くじけそうなみずからの心を励まし、鼓舞しようとしたのである。