戦争直後の松下電器と幸之助は、制限会社としての指定、財閥家族としての指定など七項目に及ぶ制約を受けて、思うように仕事ができない状態であった。
 一方、世の中のインフレは進み、生活は日に日に苦しくなっていく。従業員のために大幅な賃上げをしたいが、会社にもそれだけの余裕がなかった。


 そうしたなかでは、労働組合からこんな要求が出たのも無理はなかった。
「よそではみな現物給与をやっている。松下電器でも、給料を電球で現物支給してほしい」
 当時は電球一個を米一升と換えることができた。いわゆるヤミ値で、公定価格四円二十五銭の電球が、百円くらいで売れるのである。人情として無理からぬ要求である。幸之助は例外として一度だけその要求に応じたが、それ以外は頑として受け入れなかった。


「電球を現物支給すれば、それはヤミを助長し、ただでさえ不足している電球がさらに一般社会に供給されにくくなってしまう。そういうことは松下電器としてすべきではない」 
 幸之助にそうした強い信念があったからである。