昭和三十九年当時といえば、各業界とも深刻な不況に直面しつつあった。電機業界もその例外ではなく、全国の松下電器系列の販売会社、代理店も厳しい状況にあるという。ただならぬ事態を察知した幸之助は、一度その実情を自分の耳で確かめてみたいと、その年の七月、熱海ニューフジヤホテルに全国の販売会社、代理店百七十社の責任者を招いて懇談会を開いた。
いざ会談のフタを開けると、集まった販売会社、代理店の責任者の口からは、松下電器の行き方に対する非難が異口同音に発せられた。
「うちは松下以外のものは扱っていない。松下のものだけだ。それで損をしている。赤字だ。どうしてくれるんだ」
「親の代から松下の代理店をやっているのに赤字続きだ。いったい松下はどうしてくれるのだ」
なかには儲かっている販売会社、代理店もあるが、それは一部だけで、会談の一日目はそうした不満の声を聞きつつ終わった。
二日目に入っても、出てくるのは一日目同様、松下電器に対する不満ばかりである。それに対し幸之助も反論した。
「赤字を出すのはやはり、その会社の経営の仕方が間違っているからだと思います。皆さんは松下電器に甘えている部分がありはしませんか」
そうこうするうちに、二日間の予定で開かれた会談は一日延長され三日目に入った。しかし、三日目になっても苦情は出続けた。幸之助はこのままで終わってはいけない、何か結論を出すべきであると考えたが、結論といってもどのような結論があるのか。相変わらず議論は平行線をたどっている。そんななかで幸之助は、これまでのお互いの主張を静かにふり返ってみた。
"不平、不満は、一面、販売会社、代理店自身の経営の甘さから出てきたということもできる。しかし、考えてみると、松下電器にも改めねばならない問題がたくさんあるのではないか。責任は松下電器にもある。いや責任の大半が松下電器にあるのではないだろうか"
幸之助は壇上から語りかけるように話しだした。
「皆さん方が言われる不平、不満は一面もっともだと思います。よくよく考えてみますと、結局は松下電器が悪かったのです。この一語に尽きます。皆さん方に対する松下のお世話の仕方が不十分でした。不況なら不況で、それをうまく切り抜ける道はあったはずです。それができなかったのは松下電器の落ち度です。ほんとうに申しわけありません。
いま私は、ふと昔のことを思い出しました。昔、松下電器で電球をつくり、売りに行ったときのことです。『今はまだ幕下でも、将来はきっと横綱になってみせます。どうかこの電球を買ってください』私はこうお願いして売って歩きました。皆さんは、『きみがそこまで決意して言うなら売ってあげよう』と言って、大いに売ってくださいました。そのおかげで松下電器の電球は一足飛びに横綱になり、会社も盛大になりました。
そういうことを考えるにつけ、今日、こうして松下電器があるのは、ほんとうに皆さんのおかげです。私どもはひと言も文句を言える義理ではないのです。これからは心を入れ替えて出直します」
そう話しているうちに、幸之助は目頭が熱くなり絶句してしまった。会場もいつしか静まり返り、出席者の半分以上は、ハンカチで目を押さえていた。
三日間にわたる激論の結果、懇談会は最後に心あたたまる感動のうちに終わった。販売会社、代理店、そして松下電器はお互いに気持ちを引き締めあった。
この会談のあと、八月一日から、病気休養中の営業本部長を代行した幸之助を中心に、新しい販売制度が生み出され、その新制度のもとに協力体制が敷かれて、一年後には事態は好転した。