教育界、宗教界、行政界を経て松下電器に入社した、労政担当の幹部の話である。彼は入社のときすでに四十代の半ばに達していたが、新たな気持ちで仕事に取り組む決意を固め、その手初めに、これまでの会社と労働組合とのあいだの交渉事項や交渉経過などをまとめた印刷物を、関係部署に配布することにした。
 ところが、その文書を配り終わるか終わらないうちに、社長室にすぐ来いという呼び出しを受けた。

 

 「この印刷物はなんや。組合の上部団体を名指しで批判してるやないか!」
 その文中には、確かにある上部団体の賃上げ交渉の方針を名前をあげて批判した箇所があった。

 

 「きみはまだ入ったばかりで知らないだろうが、この団体の本拠がある会館では、すべての電気器具はわが社の製品を使っていただいている。わが社の大事なお得意さんの一つや。そのお得意さんのことを云々するのは、商人として許されんことや。批判があるなら、固有名詞を使わず、上部団体の一つは、といった表現を使えばいいし、それで文書全体として見ても何ら差し支えないやないか。
 一度、その会館へ行って、内部をよく見学してきたらいい。そして配布した印刷物は全部回収して、私の机の上に積んでくれ」

 

 のちにその幹部は、「新入りの自分に商人としての自覚を植えつけようとした松下さんの、あえて厳しい叱責であったろう」と語っている。