前(民主党)政権の失策のひとつに「官僚」とのつき合い方が挙げられるでしょう。自民党政権では現在、経済復興・再生と外交面に全力集中している感がありますが、公務員の新規採用や給与など制度・待遇面の改革も静かに進みつつあります(2013年3月25日時点)。 

 

 国家繁栄のために「官僚」「公務員」の改革を今後どう進めていくべきなのか――。

 「官尊民卑」という昔の時代を知る松下幸之助が興味深い提言・主張をしています。

(2013.3.25更新)

 

詳細

 近年、国家を語るとき、つねに批判の的となるのが国家公務員であり官僚です。その「あるべき姿」について、松下幸之助はどのように考えていたのでしょうか――。いまから半世紀以上も前に、こんな主張をしていました。

 

 「国民は、国民の公僕として政治に携わる官吏の待遇をよくするように心がけねばなりません。官吏は国民の生活を左右するほどの大きな任務をもっています。したがって待遇を過てばその使命を果たすことができず、ひいては国民全体に不幸をもたらす結果ともなります。待遇をよくするには、政治のムダを省かねばなりません。人と仕事と機構のムダを究め、国家の負担を軽減することによって、よき待遇を与えることができます」

松下幸之助の哲学』より

 

 「官吏(公務員)の待遇をよくすべきとはなにごとか!」との声も聞こえてきそうなのがいまの現実です。しかしその前提に挙げた「政治のムダを省く」「国家の負担を軽減する」という言葉は現代的意義のあるものとして光彩を放つようにみえます。つまり松下は、官僚・公務員の人員を適正に減じ、そのうえで各人の能率を上げてもらい、そうして節約され生じるところの国費を、減税や優秀な公務員の待遇改善にあてることを主張していたのです。また公務員としての職を失う人は、民間で適当な仕事を開拓すべきだという意見も述べています。

 

 松下の訴えはほかにも、いまの常識と重なる部分が多々あります。「民間から大臣を登用する」「官民一体となる」「サービス精神を持つ」「競争原理の導入」といったものがそれです。ただそうした主張のなかでも、とくに際立つのはその根本にある「考え方」です。特徴的なものを以下に拾い上げてみます。

 

・「行政の立場にある人(官僚、公務員のこと)が、金が足りない場合に増税を考えることは、これは当然の常識だと思います。けれども、政治家というのは、そういうものではないと思います。無から有を生み出すのが政治家です」 『政治を見直そう』より

 

・「金を生かして使ってもらうということ。政府が、また自治体もそうですけれども、金を生かして使っているかどうかという問題ですな。死んだ金の使い方をしてもらいたくない。生かして使う勉強をしてもらわないといかん。そういうことを勉強する機関が政府にはないわけです。行政を担当している人が、みんな立案して、それを鵜呑みにしてやっている。そうではなく、われわれが会社を経営するごとく政府に金の使い方を考えてもらう」 『松下幸之助発言集21』より

 

・「すでに徳川がやっている。南町奉行とか、北町奉行というのがあって競争させた。まったく徳川家康の偉いところでしょう。そうすると民衆はあの奉行はいかん、あの奉行は不公平だから、わしはあの奉行のときは行かん、来月になれば南町奉行が当番だから、そのときわしは訴えよう、と選択する余裕を残した。どっちの奉行がよいかは住民によって選択させた。よい奉行の際は門前市をなす。悪い奉行の際は門前雀じゃく羅らを張る。これは奉行としてはたまりません。それを上から見ているのですから。だからどうしてもこうしても善政をしかないといかんです。だから代々江戸町奉行にはおおむね名奉行が出ております。そこに徳川の偉いところがあった」 『松下幸之助発言集36』より

 

・「やっぱり尊敬する人に命令されたら、だれでも一所懸命になる。尊敬しない立場にある人に何を言われても、かゆくも痛くもありませんものな。それが官僚をして官僚たらしめる原因になっている。だから今までは、ほんとうの意味のいい政治家が出ていないということですな」 『松下幸之助発言集21』より

 

 そしてさらに、興味深い発言があります。いまや官僚の存在悪を象徴する言葉になっている「天下り」についてです。松下は、企業は「社会の公器」であり、商売は私事でなく公事であるという経営哲学をいち早く掲げ、松下電器の経営にあたっていましたが、1972年4月に行なった講演の質疑応答の際、「天下りの是非」を問われて次のように応えています(以下、『松下幸之助発言集10』より)。

 

 「行政に携わっている人も、これはまったく公の仕事をしているんだ、だからそういう公の仕事をしているところから、公の仕事であると考えられるところの私企業に対して、つまり転勤するということは、天下りでも何でもないんやないか、本質的に私はさしつかえないと思うんです。まことに結構であると、そう考えていいと思いますね。行政に携わって相当の手腕力量のある人が、民間の企業へ行ってそして大いに腕をふるうということは、国家、社会のために是認されていいと思うんですね」

 

 「ただ、そういうことが往々にして批判されるということは事実あります。その事実があるというのは、“私”の心をもってしてそういうことが行われるのか、“公”の心をもってして異動されておるのかということを考えていくと、そこに問題があるんですね。そうでありますから、“私情をさしはさんでの行動は許されない”ということであろうと私は思うんです。そういうことでないかぎりは、行政に携わっておった方が民間へ下ること、いっこうさしつかえない。だいたい民間へ下るという、その『下る』とかいう言葉がすでにもう封建的なんです」

 

 「昔、日本は官尊民卑といいまして、官吏は尊い、しかし民間は尊くないんだというような考えも、その当時の社会秩序としては必要であったんでしょう。けれども今日の民主主義の時代におきましては、上下という言葉がすでにもうなくなっているわけです。『天下り』というその言葉自身に封建性があるわけですね。私はそう思います。そうでありますから、個人の利益とか“私”の心にとらわれて異動するというようなことがあってはいけない。それは慎まないといけない。そうでないかぎりにおきましては、だれがどこへ行こうと自由である。またそういうことが盛んに行われることによって、適所適材ということになるだろうと、まあこういうふうに考えておりますが、いかがでしょうか」

 

 「天下り」という言葉自体がよくない。「転勤」である。その転勤の「質」をよく確かめよ。「質」がよければ逆に盛んになってもいい――。非常に松下らしい考え方だといえます。  もちろん経営者としての松下は、大企業になってくると「官僚化」してくる危険性があることを認めていましたし、当時の「官僚制度」「官僚政治」そのものに多くの人々と同様、批判的な意見をもっていました。

 

 しかし、ただ官僚を叩けば世の中がよくなるとは考えていなかったのです。国家の繁栄を築くには、精選された優秀な官僚・公務員にシビル・サーバント(公僕)としての役割を存分に果たしてもらわねばならない。そのために国民の代表者である政治家(民間企業でいえば経営者の立場になる)は、(民間企業でいえば社員の立場である)官僚・公務員が、よりいい仕事をできるよう、雇用面、モチベーションなどでつねに配慮を怠らないことが必要だと説いたのです。

 

 そして、そうした「あるべき姿」の実現を望んでいた松下は、1960年代後半、かの石原慎太郎氏が政治家になるという話をしたとき、「『ぼくは主権者たる皆様の代表者として立つんだ』と(言いなさい)。『公僕として働く』と絶対言うてはならん、そういう不見識なことは言うてはならない」と進言したといいます。

 

 現在、国家財政が危機的状況にあるなか、日本国民は、現政権の「官僚」の生かし方をよくよく監視する必要がありそうです。

PHP研究所経営理念研究本部
 

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