昭和四十五年に開かれた大阪万国博覧会に、松下電器は「松下館」を出展。その建設中、松下幸之助はしばしば視察に訪れました。あるとき、幸之助は突然、下駄を持ってこさせ、それを履くと、館内へのアプローチに設置された階段を昇り降りし始めます。何度かそれをくり返したのち、担当者にこう質しました。
 「万博には全国からいろんな方が来られる。下駄履きのお年寄りもおられるだろう。そういう方たちにも安全かどうか確認したのか」

 幸之助の指摘を受けて、設計から見直し、段差を低く、奥行きを長くするという改善が施されました。

 

こちらの都合で決めるべきではない

 何より相手の立場、お客様の目線で考え、配慮するのが幸之助の一貫した行き方でした。

 

 昭和五十二年、ナショナル住宅(当時)の第一回全国代理店会開催に先立ち、招待客のスケジュールをチェックした幸之助は、「せっかくお見えになるのだから、住宅に関係のあるエアコンと冷蔵庫の工場にご案内しよう」と、見学先の変更を指示します。
 その工場は会場から離れていて、そうなると一泊増やさなければならず費用もかかります。できるだけ切り詰めたいと考えていた責任者は躊躇しますが、幸之助は「必ずそこをお見せしなさい」といって譲りません。
 “お客様の立場からすれば、自分の商売に関わりが深い工場をご覧になりたいはずだ。こちらの都合で決めるべきではない”という強い思いがあったのです。

 

お客様の立場を最優先する

 こうした幸之助の姿勢が相手の心を打つことも少なくありませんでした。
 たとえば昭和五十六年、松下電器の関連会社が関わった施設が南紀・白浜にオープンしたのを機に、「音無会」(大阪在住または大阪に関係の深い和歌山県人の会。幸之助が会長を務めていた)の会員を現地に招待することになったときのことです。当日、折悪しく大型台風が接近。世話役の社員らが天候を気にしつつ準備を進めていた午前七時頃、幸之助から電話がかかってきます。「大事なお客様が台風のために帰れなくなるようなことがあっては大変や。残念だが中止にしよう」。
 すぐに手配した結果、全員の出発前に連絡を終えることができました。この処置に対し多くの会員から、「夜を徹して台風の情報を聞き、われわれの立場を最優先して、早暁に決断してくださった。さすが松下さんだ」という声が寄せられたのでした。

 この催しは一年後、天候にも恵まれたなかで無事行なわれます。施設見学後の宴会では、幸之助が丁重な歓迎の挨拶を述べるとともに酌をして回り、余興に「黒田節」を披露。終始なごやかな雰囲気で宴は盛り上がったといいます。「きょうは松下さんから“お客様を遇する心”を教わった。何よりも得難いお土産を頂戴した」と、このことがまた出席した会員らに感銘を与えたのです。

(つづく)

◆『PHP』2016年3月号より

 

筆者

佐藤悌二郎(PHP研究所客員)

 


 

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