広島に、ホスピタリティ日本一を目指すクリニックがある。「いでした内科・神経内科クリニック」だ。患者を「ご利用者」「お客さま」と呼び、同じ目線で病に立ち向かう医療を行なってきた。効率的な医療環境づくりのため取り組んだトヨタ生産方式で、13年前には「第1回ハイ・サービス日本300選」を受賞。しかし当時は、クリニック経営者としての迷いが尽きなかったと、井手下久登院長(「松下幸之助経営塾」卒塾生)は振り返る。その後の松下幸之助経営塾での学びで、どんな変化が起きたのか。

<実践! 幸之助哲学>
医師・経営者として目指すお客さまと職員の幸せーー前編

患者は「ご利用者」「お客さま」

広島市中心部から太田川を上流へ。住宅地が広がる広島市安佐北区にある「いでした内科・神経内科クリニック」。一九九二年の開院以来、内科のほか、三六室を備えるサービス付き高齢者向け住宅、入院・ショートステイ施設、通所介護施設、介護支援センターなどの障がい・介護サービス施設を積極的に展開している。
スタッフは現在約一七〇人。開院してもうすぐ三十年になるが、ずっと地域に寄り添い続けてきた。地元住民に向けて「いでした健康講座」や「いでした健康まつり」を開催するなど、地域貢献にも熱心。クリニック周辺の市民から絶大な信頼を集めている。また、二〇〇七年、優れたサービス体制を評価する「第一回ハイ・サービス日本300選」(日本生産性本部 サービス産業生産性協議会)では、医療・介護業界で最初の受賞法人となり、「ホスピタリティの高いクリニック」として注目されている。

そんなクリニックの陣頭指揮をとるのが井手下久登院長。患者満足度を最優先に考える医療機関が少数派である中、十数年も前からホスピタリティの強化に目を向けている。「患者」と言わずに「ご利用者」「お客さま」と呼び、これほどまでに「ご利用者満足」にこだわるのは、なぜなのか。その理由について、井手下院長はこう話す。

「勤務医時代に感じていた〝ある違和感〟がそもそもの原点です。クリニックを開業するまでの十七年間、私は大学病院と広島市内の病院の勤務医として働いていました。その時、医療従事者がご利用者に対し、今でいう〝上から目線〟の態度を取ることを、何か変だと思っていたのです。というのも、私の父は建設業を営む経営者でした。父の背中を見て育った私には、企業人のサービス精神のようなものが知らず知らずのうちに根づいていました。ですから、お客さまであるはずのご利用者を下に見る医師の姿勢に、大きな違和感を抱いていました」

医者とご利用者は対等であるべき――そんな考えのもと、井手下院長は当初から「医療はサービスビジネス」ととらえていたという。
「医者がご利用者を〝診てあげる〟のではなく、医者とご利用者が体の不調を〝一緒に治す〟。そんなふうに考えていました。だから、人に対するおもてなしの心、ホスピタリティの心で接することが、医療従事者には不可欠だと思っていました」

井手下院長は、クリニックを開業すると同時に「通所リハビリテーション」を開設。その七年後、介護系の施設である「重度認知症患者デイケア」をオープンしている。今から三十年近く前、医療機関がこうした介護施設を併設するケースはまれ。そのきっかけとなったのも、勤務医時代に「ご利用者のための医療とは何か」という思いを抱いたことだ。
「脳卒中のご利用者とやりとりする中で、病院ではなく、家の畳の上で死にたいと訴える声をたくさん聞きました。でも、当時は医療と介護の連携が整っていなかったため、それができませんでした。それ以来、〝自宅で死ねる〟医療介護の体制を確立したいと思い続けていました」

開業からしばらく経ったある日、脳卒中などによる重度の障がいを持つ患者が、自宅療養できる取り組みを行なう岡山の診療所を知った。まだ在宅介護という言葉すらなかった時代だったが、自宅で最期を迎えられる医療を整えているところに、井手下院長は感銘を受けた。「自分の目指すものが見えた」。この思いが、介護系施設を次々と開設する原動力になった。

経営者としての迷いに危機感を覚える

岡山の診療所を参考に、広島で初めて、クリニックにデイケアを併設した井手下院長。一日の外来利用者が二〇〇人になった。これによって引き起こされたのが「長い待ち時間」だ。利用者は診察まで二、三時間待つのが常だったという。
「外来は〝待つ〟のが当たり前といわれた時代だったのですが、私はこの待ち時間を何とか短くできないかと考えました。しかし、よいアイデアが浮かびませんでした」

そこで、業務の標準化を図るためにコンサルタントに入ってもらい、「トヨタ生産方式」による改善活動を取り入れた。まず、来院してからクリニックを出て帰路につくまでの目標時間を六十分以内と決め、ストップウォッチでスタッフの作業を一つひとつ計測した。同時に、作業のために必要なスペースをきちんと確保したり、カルテの置き場所を変えるなど、スタッフがムダなく動けるスムーズな動線をつくった。見直しによって、多くの「業務のムダ」が見つかった。

それらを一つひとつ改善していった結果、取り組みを始めて二年で、待ち時間の大幅短縮に成功。目標の「来院してから帰路につくまで六十分以内」の達成率は三八パーセントから八五パーセントに上昇し、「待ち時間の長さは仕方がないもの」というスタッフの長年の観念も変わっていった。この取り組みが評価され、「第一回ハイ・サービス日本300選」の受賞に至ったのだ。

受賞によって、クリニックは「医療機関のトップランナー」として世間から高い評価を受けるようになった。さらに井手下院長は、クリニックの「経営理念」を作成し、朝礼でスタッフらと唱和するようになった。各施設は地域のあちこちに点在していたため、場所が離れていても、思いを共有できるように、との考えからだ。
「しかし、当時の理念は現場の様子だけを見てつくった近視眼的なものでした。そのため、はたしてこの理念でいいのか......という疑問が頭をもたげるようになったのです」

また、理念をつくったにもかかわらず、経営者としての迷いが日々尽きないことに、危機感すら覚え始めた。
「例えば、人事一つとっても、誰をどこに異動させるか、その判断は正しいか、いつも迷っていました。これほどまでに迷うのは、自分の判断基準がないからではないかと思いました」

では、どうすればいいのか。そこで浮かんできたのが、松下幸之助の哲学だ。それを学ぶことが迷いの突破口になるのではないかと思った井手下院長は、二〇一七年、松下幸之助経営塾の受講を決めた。
「それまでにも様々なセミナーを受けてきましたが、経営者として正しい判断をするには、やはり幸之助さんの考え方を学ぶ必要があると思いました。幸之助さんは、高い確率で正しい判断を下すことができたから、成功されたと思っています。それは、正しい判断基準を持っていたからではないか。ならば、自分もそれを身につけたい。そう強く思いました」

学んで気づいた幸之助哲学の奥深さ

井手下院長は、医者として歩み始めた二十五歳の頃から松下幸之助の本に親しみ、幸之助哲学に共感を抱いていた。他の多くの経営者の著書も大量に読んできたが、いつも最後には幸之助の著書に戻ったという。
「幸之助さんは、世界でナンバーワンの存在。孔子やイエス・キリスト、お釈迦様の教えを書いた本もたくさん読みました。ただ、この方たちが思想を説くことに重きを置いたのに対して、幸之助さんは実際に事業をしながら哲学を考えたというのが、私にとっては大事な点です。幸之助さんは起業し、たった一代で世界的な一流企業を育て上げる中で思想を形づくったのに加え、その道のりをもとにした方法論をご自身で編み出し、説いています。実際に行動し、積み上げてこられた実績は、本当に素晴らしいものだと思います」

経営者としての迷いや未熟さを克服するため、松下幸之助経営塾の門をたたいた井手下院長。しかし、受講をスタートし、幸之助哲学を学べば学ぶほど、その奥深さに気づいたと話す。
「幸之助さんのおっしゃることは、一見簡単で、誰でもすぐに実行できそうに思えます。しかし、実際には大変難しい。幸之助さんの言葉通りに実践してみたつもりでも、なぜか上手に経営できません。幸之助さんにできて、私にできないのは、いったいなぜだろう、何が違うのだろうかと、学びながら考え続けました」

哲学で特に難しかったのが「宇宙根源の力」という概念だ。宇宙には森羅万象を創造し、日々動かしている「宇宙根源の力」がある。その力の意志は、「自然の理法」として宇宙に存在するすべてのものに作用し、宇宙全体を生成発展させている。この宇宙根源の力に通じる心や、自然の理法に従う心が「素直な心」だ。それは物事をありのままに見ようとする心――。井手下院長は、これを自分の経営に置き換えて考えることがとても難しいと話す。

「経営塾では、『人間を考える』という本を三〇〇回読むようにとも言われました。幸之助さんが説く〝素直な心〟も〝生成発展〟も〝礼の精神〟も、それらを一気通貫するのがその本に書かれている〝宇宙根源の力〟だと思います。もとになるこの考え方を理解することができれば、その場しのぎの判断ではなく、もっと広い目で正しい判断が可能になると考えました。そこで最近、新たに『人間を考える』をテキストに、幹部と勉強会を始めています」

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松下幸之助著『人間を考える』。最近、勉強会を始めた


経営理念の理解と実践を深め「日本一」の医療・介護へ(後編)へつづく

経営セミナー 松下幸之助経営塾




◆『衆知』2020.7-8より

衆知20.7-8



DATA

医療法人社団
いでした内科・神経内科クリニック

[理事長・院長]井手下久登
[所在地]〒739-1734
     広島市安佐北区口田三丁目31-11
TEL 082-845-0211
E-mail information@ideshita-clinic.jp
職員数 約170人
設立 1992年
事業内容 医療・障がい・介護サービス
診療科目 内科/神経内科
福祉・介護事業
 通所介護(デイサービス)事業/精神科デイケア/高次脳機能デイケア/ヘルパー
 ステーション/サービス付き高齢者向け住宅