人口3万人足らずの香川県・小豆島。映画『二十四の瞳』の舞台となった瀬戸内の景勝地だが、少子高齢化が進み、人口減少が止まらない。そんな中、農業で小豆島を元気にし、世界にアピールしようと意気込むオリーブ農家がある。井上誠耕園だ。30年前、1000万円強だった売上を800倍近くにまで拡大した三代目園主の井上智博さん(「松下幸之助経営塾」卒塾生)に、地域活性の秘訣を聞いた。

<実践! 幸之助哲学>
大義ある経営で日本の大地から経済を再興するーー前編

オリーブに包まれた小さな島

小さな島々が穏やかな海面に点在する、しまなみの景色。その景色を楽しみながら、高松から高速フェリーに揺られること三十分、「オリーブの島」とも呼ばれる小豆島が眼前に現れる。豊かな自然の中に広がる、豊かなオリーブ畑。そのオリーブ畑を拡大し、生産、加工、販売を一貫して行なう六次産業化を成功させたのが、井上誠耕園だ。
同社が誕生したのは一九四〇年。現在の社長である井上智博さんの祖父・太子治さんが、どんぐり林を開墾して一本のみかんの苗木を植えたのが始まりだ。

「祖父は元々、宮大工だったのですが、農業でこの地域を豊かにしたいという想いを持って農家を始めたんです。その想いとは、『農は国の基なり』という考え方。今も創業の精神として会社に息づいていますよ」(智博さん)

急斜面で日当たりのいい小豆島の土地を活かして、みかんの栽培からスタートした。その数年後にはオリーブを根づかせ、オリーブの加工品まで手がけるようになった。
小豆島が「オリーブの島」と呼ばれるのは、ここが国内オリーブ栽培の発祥地だからだ。およそ百年前、海外からオリーブの苗木が輸入され、日本の様々な地域で栽培が開始されたが、オリーブの木が育ち、農業として成り立ったのは小豆島だけだったという。

「小豆島は地中海に似た気候だからオリーブ栽培に成功した、と言われていますが、実際はそうではないと思います。先人が苦労をいとわず、成功するまであきらめなかったから、この地にオリーブが根づいたのだと思いますね」
小高い丘にあるオリーブ農園から海を見つめながら、智博さんは話す。

現在は「六次産業化の成功者」として全国に名を馳せる同社だが、智博さんが三代目として島に戻るまで、井上誠耕園はごく普通の小さな農家だった。家族でみかんやオリーブを栽培し、細々と売って生計を立てていた。「私を育ててくれたのが不思議なくらい、家計のやりくりには苦労したんじゃないでしょうか」と、両親の苦労を思いやる。

そんな農家が、今や売上七九億円にまで成長。オリーブオイルをはじめとした加工食品、オリーブ化粧品、レストランなどを幅広く手がける企業へと育った。だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。

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井上誠耕園のオリーブ畑(10月)。枝にいっぱいの実をつけているため、下に垂れている

目の当たりにした農業の現実

祖父が創業し、その背中を見ていた父・勝由さんが引き継いだ井上誠耕園だが、智博さんは当初、家業を継ぐ気は全くなかったという。

「とにかく島の田舎暮らしが嫌いで......。なんでうちは農家なんだろうと、カッコ悪いとさえ思っていました。街に出たくて、都会の学校に進学しようと思ったのですが、僕は出来が悪い子でしたから、無試験で入れる大阪の専門学校にしか入学できなかったんです」

二年間通ったものの、自力で就職活動する自立心も身につかず、結局、父の縁故を頼ることに。井上誠耕園がみかんを卸していた神戸中央卸売市場の青果卸に勤めることが決まった。
そこでの六年間で、智博さんは衝撃の事実を知ることになる。当時、みかんなどの農産物は卸売市場でせりにかけられ、卸商にせり落とされたものが町の小売店に流れて一般消費者に売られた。市場でのせりは、ブランドがついている農産物から先に行なわれ、ブランド力のない弱小産地は後回しにされる。みかんなら、有田みかん(和歌山)や愛媛みかんなどが最初にせりにかけられ、熱が冷めたところで、小豆島などの弱小産地のものがようやくせりにかけられた。

「最盛期になると、市場のそこら中にみかんの入った箱があふれていました。そんな時期の弱小産地のせりはひどいもの。せり自体が成り立たないんです」

田舎が嫌いで飛び出したとはいえ、小豆島のみかんがせりにかけられると、「うちのみかんだ」と思って気になっていた。ところが、小豆島のみかんにせりの順番が回ってきた途端、せりがピタリと止まっていたという。

「誰も指し値を出してくれない。つまり、買い手がつかないんです。どの卸商もブランド産地のみかんをたっぷりせり落としているものだから、弱小産地のみかんには見向きもしない。結局、一〇キログラム五〇〇円という信じられない安値で、しぶしぶ引き取られていく時もありました」

ろくに農業の手伝いもせず、好き放題に育った智博さんだったが、それでも、両親が試行錯誤しながらみかんを育てる姿を横目で見ていた。苦労して育てたみかんが、たったの五〇〇円。その現実を突きつけられ、頭を殴られたような衝撃を受けた。
それだけではない。一〇キログラム五〇〇円でせり落とされたみかんは、小売店で「一〇玉三〇〇円」という値段で売られていた。

「一〇キログラムのみかんを中玉サイズに換算すると、だいたい一〇〇玉。それを一〇玉三〇〇円で売り切ると、小売店は三〇〇〇円の売上を上げることができます。卸商から七〇〇円で買ったとしても、二三〇〇円の儲け。農家は一年間苦労してたった五〇〇円しかもらえないのに、小売や卸などの流通は、伝票を書いて売るだけで何倍も儲けるわけです。何だこの差は、と思いました」

世の中は、ものをつくる生産者ではなく、それを売る流通が儲かる仕組みになっている。そのことを知った智博さんは、自分が生まれ育った小豆島と、そこで行なわれている農業を否定されたような気持ちになった。一方で、小豆島への愛おしさが込み上げてきたという。

つくったものを人に売ってもらうからいけないんだ。これからの農業は、自分で売る術を持たなければならない。そう痛感し、卸商を辞めて故郷に戻る決心をした。「実家が汗水たらしてつくった農産物を、自分の手で売るんだ!」という思いを胸に秘めて。

ものを売るところに利あり

一九八九年に小豆島に帰郷。当時、井上誠耕園の売上高は一〇〇〇万円を少し超える程度で、家族とパート一人で切り盛りする小規模な農業会社だった。

「家で働くと言ったら、親父には最初、『どこかに勤めろ』と言われました。農業で食べていけると自信を持ってお前に言えないから、というわけです。でも、そんな気落ちした親父を見て、逆に『おれはやるぞ!』と思いました」

自分の手で農産物を売ると意気込んでいたとはいえ、販売の秘策があったわけではなかった。軽トラックの後ろに父がつくったみかんを積み、卸商に勤めていた頃に土地勘のあった姫路にフェリーで渡って一軒一軒、アパートやマンションを回って行商する日々が始まった。
あるいは小豆島では、自宅裏の山の上にある山岳霊場に軽トラックで上がり、小豆島の霊場を回るお遍路さんに売ったりもした。

「お遍路さんを乗せたマイクロバスが家の前を通ると、その後ろについていって、バスから降りたお遍路さんに『どうですか?』と言って袋入りのみかんを売るんです。なにしろ、売る術なんて何も知りませんでしたから、売れそうなところがあれば、飛んでいって売ったんです」

帰郷した年の十二月、井上家の電話がポツリポツリと鳴り始めた。注文の電話だった。すると母が伝票の束をめくって、発送の準備をする。「何してるの」と尋ねたら、「うちのみかんを食べたお遍路さんが、以前に食べたみかんがおいしかったから送ってほしい、と言うのよ」とのことだった。
聞けば数年前のある日、家の前にあったお遍路さんを泊める民宿のお風呂が壊れ、民宿の主人から、お遍路さんにお風呂を貸してあげてほしいと頼まれたことがあったという。父は快くお風呂を貸し、風呂上がりには自分の畑で採れたみかんを振る舞い、お遍路さんとの話に花が咲いたそうだ。小豆島にお遍路に来るのは山陰地方の人が多い。山陰ではみかんがあまり採れないこともあり、帰ってから注文の電話をくれる人がポツポツ出てきた。

「たぶん、みかんを取り寄せた人が、近所にお裾分けしたんでしょうね。親類の家に送ってほしいということもありました。それらが口コミとなって広がっていったのではないかと。注文を受けていた母の対応も丁寧だったんだと思います」

母がコツコツと積み重ねていったみかんの宅配。その送り状を、智博さんが当時出始めたばかりのワープロで整理して名簿にしたところ、なんと二八〇件の「顧客リスト」ができあがった。
「〝これだ!〟と思いました。リストには、山陰地方だけでなく東京のお客様の名前まであり、全国に広がっていることがわかったんです」

翌年、井上さん一家は、つたない文章ながら、その年のみかんの作柄状況をしたため、初めてつくった価格表を同封して二八〇件のお客様全員に手紙を送った。これが大ブレイクした。

「待ってましたとばかりに注文が来始めました。それまでは注文があるのを待っているだけでしたが、こちらからお客様にお手紙を送っただけで、二八〇件だった顧客数が、わずか四年くらいで四〇〇〇件にまで脹れ上がったんです」
この時、智博さんは、電話で注文を受け、全国に商品を届ける通信販売の威力を知った。

人を引っ張るには「大義」がいる

その後、みかんとともにオリーブ製品を売り始めるようになると、そちらのほうの売上が大きくなっていった。

「当時は主に、畑で採れたオリーブを美容オイルに加工して販売していました。最初は、大型搾油機を持つ会社にオリーブの実を持ち込み、搾ってもらっていました。しかしこの方法だと、うちのオリーブだけでなく、ほかの農家のオリーブも全部いっしょに搾られてしまいます。手前味噌ですが、親父はオリーブ栽培に熱心で、良質なオリーブを育てることに心血を注いでいました。そんなオリーブをほかの農家のオリーブと一緒に搾られては、価値がわからなくなると思いました」

二〇〇〇年、三年前に農業法人を設立し三代目園主に就任していた井上智博さんは、四〇〇万円かけて小さな搾油機をイタリアから輸入。機械の操作に四苦八苦しながらも自分たちでオリーブを搾り、オリジナル製品をつくり始めた。
同時に、通販の全国展開にも本腰を入れ始めた。二〇〇四年、通販王国である九州で行なわれていた「通販勉強会」で学んだ井上さんは、本格的に〝戦略的通販〟に乗り出した。新聞広告を出し、新規顧客を大々的に増やしていった。
その前後に、島外の若者が「オリーブの栽培をしてみたい」と、井上誠耕園の門を叩き始めた。

「愛と平和のシンボルであるオリーブ畑に身を置き、季節の移ろいの中で暮らしたい。そんな思いを持って、目をキラキラさせてうちにやってくるんです。ところが、農家の仕事はそんなに甘いものではない。物言わぬオリーブの木を相手に、一年という長いサイクルの中で農業をやります。そんな日々を送るうち、最初はキラキラだった目がだんだんと曇り、次第に不平不満をもらすようになってくるんです」

井上さんは悩んだ。せっかくやる気を持って小豆島にやってきた若者たちに、どうやったらやりがいを感じてもらえるだろうか。だが、大企業に勤めた経験がなく、人の引っ張り方がわからなかった。
そんな時、一冊の本に出合った。京セラ創業者である稲盛和夫氏の『生き方』(サンマーク出版刊)だ。その本を読んで、「ああ、人を引っ張るには、大義が必要なんだ」と思ったという。
そこには、こんなことが書かれていた。「人生は魂を磨く旅路であり、生きるには大きな意義がいる。世のため人のためという、錦の御旗のような大義を仕事に持たせること」。この言葉に出合った時、祖父が父に口うるさく言っていた言葉がふと浮かんできた。「農は国の基なり」だ。

「うちにも稲盛さんが説くような大義があるやないか、と思いました。社員に語るべき大きな意義があったんです」


「農は国の基なり」(後編)へつづく

経営セミナー 松下幸之助経営塾




◆『衆知』2020.1-2より

衆知20.1-2



DATA

農業法人 有限会社 井上誠耕園

[代表者]園主 井上智博
[本社]〒761-4395
    香川県小豆郡小豆島町池田2352番地
TEL 0879-75-1101
FAX 0879-75-1612
設立...1997(平成9)年6月
資本金...300万円
事業内容...オリーブ及び柑橘類の栽培、加工、販売等