少子化が急激に進む中、産婦人科や小児科医院の経営は特に厳しさを増している。そうした状況にありながら、岡山市南区の三宅医院グループでは、産後も含めたトータルなケアや、手厚く行き届いた医療サービスが根強い支持を集めている。創立者の急逝によって突然経営を任された二代目の三宅貴仁さん(「松下幸之助経営塾」卒塾生)は、慣れない組織運営に戸惑い苦労しながらも、地道な取り組みによって改革を進めつつある。その経営姿勢について語っていただいた。

<実践! 幸之助哲学>
「何のための経営か」を問い続けてーー前編

経営塾での気づきを元に経営理念を刷新

「君なあ、何のために経営してるのか、一言で説明してくれるか」
松下幸之助経営塾では、かつて松下幸之助が発したこうした言葉をテーマに受講者同士のグループ・ディスカッションが行なわれる。受講者が自分自身を見つめ、みずからの経営姿勢を問い直し、考えを深めていくことによって答えを見つけ出していく。

産婦人科を中核とする三宅医院グループの経営者である三宅貴仁さんは、二〇一八年に参加した松下幸之助経営塾で、この問いについて真剣に考えた結果、病院経営者としての原点を再発見することができたという。

「二代目の経営者である私は、病院の経営を維持することと、産婦人科医としての日々の業務に追われて、一体何のために病院を経営しているのか、よくわからなくなっていました。ところが経営塾に参加し、幸之助さんの言葉をぶつけられ、あらためて真剣に考えたことによって、ようやく一つの結論を見出したのです。それは当院の患者さん――産婦人科なので多くは妊婦さんですが――に幸せになっていただくため、元気になっていただくために、出産から子育てまでを全面的にサポートしていく、その目的のために経営しているのだ、ということです」

こうした気づきを得た三宅さんは、その後、この原点に立って経営のあり方を見直した。その第一歩として、元々あった経営理念を、よりすっきりとした形に修正した。

 すべての女性にHappinessを。
 ~グループの英知と熱意を結集し、地域の健康としあわせを支える~

 品質方針
 感動を与えられる医療・サービスを追求し笑顔溢れる未来を創造する

 品質目標
 ・医療水準を高め、安全・安心な医療を提供する
 ・謙虚な心で自己研鑽に励み、知識と技術、人間性の向上を図る
 ・相手にとって最善であるかを常に考え、期待を上回る行動をとる
 ・多職種間で協力・連携し、患者主体の医療を行う
 ・個々のスタッフが輝けるように職場環境を充実する

「すべての女性」という文言については、男性を除外しているイメージがあるとして、院内で異論も出たという。しかし三宅さんは、「私たちが女性を幸せにすることができたら、そのまわりにいる男性も幸せになる」という考えを示し、最終的には賛同を得た。
その上で、「目の前にいる患者さんには何が必要なのか」「どんなことに困っているのか」「どうしたらもっと幸せになっていただけるのか」を一人ひとりが真剣に考えるようにと、スタッフたちに訴え続けた。こうした三宅さんの考えが徐々に浸透したことで、「本当に行なうべきことを行ない、必要のないことはやめる」という改革の姿勢や、患者第一主義の風土が形成されていったのである。

画期的な診療・サービスを充実させてきた父

三宅医院は、三宅さんの父親である三宅馨氏が一九八〇年七月に開院した。スタート時の診療科目は「産科・婦人科・内科・麻酔科」であった。以降、斬新で画期的な医療サービスを次々と打ち出し、岡山では常に産婦人科医院の最先端を走ってきたといえる。

八四年には「夫立ち会い出産」を開始するとともに、「両親学級」を開講して、新しく親となる夫婦へのアドバイスを行なうようになった。その後も「マタニティ・エアロビクス」や「肩こり腰痛予防体操」、出産後の夫婦をフランス料理でお祝いする「グルメの日」、「ヘアメイクサービス」など、新しいサービスをいち早く取り入れてきた。

診療科目や診療内容の充実にも力を入れている。乳腺専門外来を開設したのを皮切りに、助産師外来、小児科、歯科、不妊治療、、胎児精査外来、形成外科、心理カウンセリングと、およそ妊娠・出産にかかわることならどんどん取り入れていった。ちなみに、産婦人科と歯科には密接な関係があり、これらを連携して運営することには大きな意味がある(後述)。
さらには、鍼灸治療、リンパマッサージといった体のケア、有機野菜を栽培する農園の経営と、それを食べさせてくれるカフェの設置(現在は閉店)、そして保育園の経営と、三宅医院グループ独自の取り組みは枚挙にいとまがない。産婦人科を中心にしながら、民間の医院としては非常に先進的な医療・サービス態勢を構築してきた。

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妊娠・出産などにかかわる多くの診療科、サービス施設を持つ

経営者として味わった苦難

三宅貴仁さんは、岡山県倉敷市の川崎医科大学を卒業後、大阪大学医学部産婦人科に入局、同大学院修了後は、大阪労災病院の産婦人科医長を経てアメリカに留学、帰国後に母校川崎医大の講師を務めたあと、二〇一五年四月に三宅医院に入った(副院長、医療法人緑風会副理事長)。

三宅さんの運命が大きく展開するのは、このすぐ後のことだった。父の馨氏が一六年一月に急逝し、まだ九カ月しか勤めていない段階で急遽、三宅医院の院長と緑風会の理事長を受け継ぐことになったのである。当時三十九歳だった三宅さんにとって、まさに青天の霹靂であったに違いない。

ここから病院経営者としての三宅さんの苦難の道が始まった。
「最初のうちは、とにかく患者さんに迷惑をかけないように、しっかり診療して、無事に出産して帰っていただけることと、スタッフにきちんと給料を支払い、辞めてしまわないようにすることしか考えられませんでした。そんなことは、父なら当然のようにできていたはずですが、いざ自分が経営者の立場になってみると、こなしていくだけで精一杯だったように思います」

三宅さんは、産婦人科医としてはもちろんプロフェッショナルである。しかし、医師として自分を高めることに集中してきたため、病院経営そのものや、組織の運営の仕方、考え方などについて、きちんと勉強をしたことはなかった。そんな状態でいきなり経営者になったことで、かなり戸惑いがあったようだ。

また、三宅医院に入る前は大規模な病院に勤めていたことから、そこで得た最先端の知識や技術をどんどん導入しようとした。馨氏の手腕によって画期的な産婦人科医院として発展してきた同院だが、開院から三十年以上が経ち、部分的にやり方が古くなっていた面もあったのだ。三宅さんからすれば、大病院に負けない最先端の医療をやりたいという思いも強かった。

しかし、あまりにも急速に変えようとしたことが、スタッフたちの思わぬ反発を呼んでしまう。スタッフたちにとっては、長年築き上げてきた三宅医院のやり方があり、それで実績を積んできているため、何もかも変えようとする三宅さんの熱意が、にわかに理解できない面があったのだろう。また、いくら前院長の息子で、産婦人科医としてはプロだと認めていても、三宅医院に来て日が浅い三宅さんの急激な変革には、簡単に応じる気持ちにはなれなかったようだ。そこには、「三十年間この病院を支えてきたのは私たちだ」という自負もあったのかもしれない。

三宅さんが院長になって約一年経った頃、ようやく経営そのものは落ちついてきた。三宅さん自身、いくらか数字にも慣れてきた。しかし、いろいろなリスクを負いながら、スタッフたちと嚙み合わない状態で病院を経営し続けることに、いつしか疑問を感じるようになった。そして前述のように、「自分は一体何のためにこの病院を経営しているのだろう」という思いが渦巻き、日々の業務には一所懸命に取り組みながらも、心のどこかでモヤモヤしたものを感じるようになっていたのだ。

塾と病を通して得た気づき

そんな折に、PHP研究所で行なっている「松下幸之助経営塾」の存在を知った。それまでも経営に関する様々な本を読んだり、たくさんの人の話を聞いたりしていたが、なかなか確信を得るところまで至っていなかった。ところが「松下幸之助」の名前に、三宅さんの中で何かピンと来るものがあった。というのも、かつて大阪で暮らした三宅さんは、大阪を本拠地とするパナソニックや、創業者の松下幸之助に対して何となく親しみを感じていたという。自然にパナソニック製品を多く愛用し、松下幸之助という人物にも関心を持っていたのである。そうした背景から経営塾の受講を決意し、冒頭で述べたような気づきを得たのだった。

経営塾ではよい仲間もできた。二カ月に一回、一泊二日で研修が行なわれることから、一日目が終わったあとは、夜の京都の街に繰り出してとことん語り合った。三宅さん以外は全く違う業種の経営者ばかりだったが、二代目や三代目という意味では立場が似ていて、しかも誰もが同じような問題に苦しんでいることがわかったのだ。考えようによっては、事業を継承するよりも、自分で創業したほうがやりやすい面も多々ある。もちろん、ベースとなる事業ができあがっていて、それをそのまま継ぐことにもメリットは多いが、経営する立場となれば、どちらがよいかはわからない。しかしそれでも、責任の重さを感じながら前向きに努力している仲間たちの姿を見て、とてもいい刺激を受けたそうだ。

経営塾を卒塾した直後の二〇一九年初頭に、三宅さんは再び大きな試練を味わうことになる。病を得て約一カ月の入院を強いられたのだ。この間、三宅さんは病室の天井を見つめながら様々なことを考えた。一時は死を覚悟したこともあったという。

だが、入院中にも大きな気づきがあった。それは、経営塾で聞いた松下幸之助のもう一つの言葉がきっかけとなっていた。「松下電器(現パナソニック)が将来も続くかどうかは、私が決めることではない。世間が決めることだ」という言葉だった。世の中に必要とされている間は存在し続けるが、世の中に必要とされなくなったら消えることになる。松下電器が続くためには、世の中に必要とされ続けなければならない。松下幸之助はそう考えていた。

「三宅医院も同じだと思ったのです。それまでは、三宅医院をこれからも続けなければならない、という前提で経営を考えていました。しかし、何が何でも『続ける』ことを第一に考えていたら、何よりも大事な『患者さんの幸せ』が二の次になってしまいます。そうなるとサービスは低下し、患者さんは離れ、結局世の中に必要とされなくなるでしょう。それでは本末転倒です。患者さんに本当に求められること、患者さんが本当に幸せになることを全力でやり、それでも世間に必要とされなくなったら、その時は潔く医院を畳めばいいんだと思いました。そんなふうに考えた瞬間、私自身、腹が据わったように思います」

この時、三宅さんは病院経営者として、一段高いステージへと上がったのである。


"産みやすく育てやすい"環境づくりへの挑戦(後編)へつづく

経営セミナー 松下幸之助経営塾




◆『衆知』2020.3-4より

衆知20.3-4



DATA

三宅医院グループ(三宅医院・医療法人緑風会)

[院長・理事長]三宅貴仁
[所在地]〒701-0204
     岡山市南区大福369-8
TEL 086-282-5100
FAX 086-281-3033
設立...1980年
グループ
 三宅医院/三宅医院問屋町テラス/三宅おおふくクリニック/三宅ハロー歯科
診療科目
 産科/婦人科/小児科/生殖医療センター/形成外科/美容外科/乳腺外科/内科
 /麻酔科/歯科