株式会社桶庄は、名古屋市を中心に住宅リフォーム・リノベーション、不動産売買、およびガス器具の設置販売等を行なっている。桶屋を始めた明治5(1872)年創業の150年近い歴史を持つ企業だ。創業家の長男として生まれ育った佐藤寛之さん(「松下幸之助経営塾」卒塾生)は、平成23(2011)年、29歳の時に桶庄に入社。早々に新規事業の責任者を任されることになる。そして、令和元(2019)年5月1日に5代目社長に就任した。だが、これまでの道のりは決して平坦ではなかった。挫折の連続だった青年期、死への覚悟、実践経営での戸惑い......。数々の曲折をどのように乗り越え、経営者として成長を遂げたのか。その歩んできたプロセスをうかがった。

<実践! 幸之助哲学>
すべてが調和・発展する「森林経営」を目指してーー前編

ゼロから学んだ実践経営学

株式会社桶庄の佐藤寛之さんが、PHP研究所が主宰する「松下幸之助経営塾」に参加したのは、桶庄に入社し社会人としてスタートを切って、一年ほどしか経っていない時だった。
社会人二年生――とはいえ、この時、佐藤さんはすでに三十歳。ちょっと遅い社会人デビューだが、その理由については、のちほど触れることにする。とにかく、他の参加者と比べて経営経験どころか、圧倒的に社会人経験が少なかった。

子供の頃から「将来会社を継ぐんだよ」と言われ続けてきたから、経営についてずっと意識はしてきたという。経営学や会計学の知識は、学校や本を通して身につけてきた。
しかし、教科書で学んだ経営学と実際の経営とは、全く次元の異なる世界であることを、佐藤さんはこの経営塾で痛感したという。

「お恥ずかしい話ですが、講義を聞いてもほとんど意味がわからないのです。とにかく、全六回の日程を休まず出席する。それでとりあえずは卒塾させていただいたというのが、正直なところです」
これが全くムダな経験だったのかといえば、そうではない。経営塾をきっかけに、佐藤さんはさらに経営者としての学びを深めていくことになる。その過程で出合ったのが、京セラ創業者・稲盛和夫氏の経営哲学を学ぶ「盛和塾」だった。自分の人生体験から、心の大切さや魂を磨き高める重要性を感じていたが、それをはっきりと言葉にした教えに初めて出合い、感動を覚えた。そして、稲盛氏が松下幸之助に大きな影響を受けていることを知って、再び松下幸之助の著作に触れ、「経営塾」での学びを思い返すようになった。すると、当時は理解できなかったことが、時を経て次第に腑に落ちるようになってきたのだという。

「松下さんは、誰にでもわかる平易な言葉を使われます。だからこそ、そこにある深みはなかなか理解しづらいのです。例えば『雨が降れば傘をさす』という言葉です。経営塾でこの話を聞いた時、私はいまいちピンときませんでした。しかし、稲盛さんを通して幸之助さんの哲学に触れることで、これは余計な計らいをするのではなく自然の理法に従うことなんだと、じわじわとその言葉の重みがわかるようになってきたのです」

経営塾を卒塾してから数年が経っていた。この頃から、佐藤さんのマネジメントスタイルは大きな変化を遂げていくのである。

「内発的動機」に焦点を当てる

それまでは、「頭の中で考えた」マネジメントをしていた。例えば、自分が方針を打ち出せば、「部下はその通りに動いて当たり前」と思っていた。しかし実際は、人は理屈だけでは動かない。そのことに対して、佐藤さんはイライラを募らせ、さらに部下に厳しく当たる。すると、ますます部下の心は離れていく......という悪循環に陥っていた。
当時を振り返って、佐藤さんは言う。
「心のどこかに〝経営を担う者はスーパーマンでなければならない〟という思い込みがありました。だから物事はすべて自分一人で決め、トップとして指示命令する。それが上に立つ者の仕事だと考えていました。部下の意見に耳を傾けるとか、人の気持ちに寄り添うなんて発想はありません。今思えば、それは自分の劣等感の裏返しだったと思います。理屈で他人を追い詰めることで、自分を守ろうとしていたのです」

人を動かすことに大きな壁を感じていた時、ある経営の学びの場で、佐藤さんは「内発的動機」と「外発的動機」という言葉に出合う。
自分の興味や関心、そこから生まれるやりがいや達成感など、自分自身の内側からの要因で行動する場合は「内発的動機」。報酬や評価、罰や叱責など、外側からの要因で行動する場合が「外発的動機」だ。外発的動機は、一時的で長続きせず、外側からの働きかけがなくなれば、すぐに行動の動機を失ってしまう。一方、内発的動機は、自分自身の内側から出ているので、外側からの要因に左右されない。自分の価値観にもとづいて行動を選択するから、自律的で責任感のある行動になる。
内側から湧き上がる動機がなければ、人は本当の意味で力強い行動はできない。上司の仕事は、部下の内面から出るものを支え、その発露を促進させていくことだと気がついたのだ。

ただ、実際に行なうのは簡単なことではない。外発的動機づけなら、目に見える賞罰によって一律の対応ができるが、内発的動機は人によって異なるので、個々人の内面に個別に対応していかなければならない。また、動機が明確な人もいれば、やりたいことが何なのかよくわからないなど、人によって温度差もある。
何が人に内発的動機を発露させるのか――そこが問題だった。
佐藤さんの頭に浮かんだのは「志」だ。「立志」という言葉があるように、志こそすべての出発点である。志あるところにこそ、力強い内発的動機が生まれる――佐藤さんには、そう確信する理由があった。それを知るには、佐藤さんの青年期まで、時計の針を戻す必要がある。

青年期に苦悩の日々を送る

多感な青年時代を送っていた。両親や教師など、周囲の大人が一方的に決めつけてくることに対しては徹底的に反発し、自分が好きな世界に没頭したり、正しいと思うことを追求したりした。大学に進学したものの、単位を取得することが目的化している学生生活のあり方に納得できず中退した。この頃から父親との確執がいっそう激しくなり、ほとんど絶縁状態になったという。
仕事もせず、かといって何かやりたいことがあるわけでもない。何もしないで自宅に閉じこもっていたが、見かねた母親のすすめもあって、日本各地を旅することにする。当時読みふけっていた司馬遼太郎の歴史小説。その舞台を訪ね歩く日々を送った。

その後、海外留学を目指して英語を勉強したり、公認会計士の資格試験に挑戦しようとしたりしたが、いずれも道半ばで挫折。日に日に焦りは増すが、時間だけは容赦なく過ぎてゆく。佐藤さんの二十代が終わろうとしていた。そんな時、東日本大震災が発生したのだった。
テレビ報道で連日流れてくる津波や原発事故の映像に、佐藤さんの心は知らずしらずダメージを受けていた。夜は眠れなくなり、食欲もなくなって、体重が激減してしまった。
あまりの急激な体調の変化に驚き、佐藤さんは病院を受診する。実は首にできたしこりが気になっていたのだ。数年前に親友をがんで亡くしている。彼の症状とそっくりだった。
はたして、血液検査をすると、腫瘍マーカーが異常値を示していた。医者からは「気になる数値が出ているので、念のために大きな病院で再検査をしましょう」と言われたが、「自分はがんなのだ」という思いにとらわれて、詳しい説明は何も耳に入ってこない。突然、世界が真っ暗になってしまった。

再検査までの期間、そして結果が出るまでの期間、佐藤さんは魂が抜けたような状態だったという。病院を受診していることは、誰にも打ち明けていなかった。それでも、あまりにも元気を失っている佐藤さんの姿を見て、母親が声をかけた。「夫婦で出雲大社に行くが、一緒に来ないか」という誘いだった。
「長らく口をきいていない父も一緒ですから、何もなければ行くことはなかったでしょう。でも、この時を逃せば二度と和解のチャンスは訪れないという思いもあったのかもしれません。私は『行く』と答えたのです」

こうして佐藤さんは、名古屋から出雲まで、父親の運転する車の後部座席に身をうずめた。後ろから両親の背中を見つめていると、子供の頃の思い出がよみがえってくる。旅行やキャンプの一コマ、誕生日やクリスマス、何気ない毎日の食卓の風景......当たり前だと思っていた日常が、実は当たり前ではなかったことに気がついた。すると、今こうして車に乗っている時間が、限りなくいとおしく思えてくる。佐藤さんは、込み上げてくる思いを抑えることができず、後部座席で声を押し殺しながら感謝の涙を流し続けたのだった。

自分に宛てた遺書

出雲旅行から戻った佐藤さんがしたことは、遺書を書くことだった。「遠からず自分はがんで死ぬ」と信じ込んでいたので、何か書き残さずにはいられなかったのだ。
遺書は三通書いた。一通は両親に、一通は当時おつきあいをしていた女性に、そしてもう一通は自分自身に宛てたものだった。三通目は、仮に今回、死なずに生き延びることができた時の自分に対するメッセージだ。
この三通目の遺書こそ、佐藤さんの「立志」というべきものであり、のちに桶庄の新しい企業理念の核となるものであった。

その趣旨は、「人生とは、いただいた心や魂を磨くためにある。もし今回、死なずに生きることを許されたなら、あの世で神様や仏様、両親・ご先祖様と再会した時に、胸を張って笑顔で今回の人生を報告できるような、そんな生き方をしよう。お預かりした魂を、今回の人生でこのように磨いてまいりましたと、正々堂々と報告できるような生き方をしよう」というものだった。
「遺書を書くという体験を通して、自分の心の一番深い部分に触れられたような気がします」と佐藤さんは言う。朝、目が覚めると、それだけで感謝の気持ちが湧き上がってきた。部屋に差し込む朝日が神々しく見えた。外に出ると、空も雲も木々も、目に入るものすべてが美しく輝いて見えた。すべての存在がかけがえのない尊いものである――この体験が、その後の佐藤さんの人生の原点となった。

数日後、再検査の結果が出た。がんではなかった。三通目の遺書の中身を実践する日々が、こうして始まったのである。

一連の出来事を通して、父親とも会話ができるようになっていた。折しも、桶庄では新たに不動産事業を立ち上げることになり、そのスタートと同時に佐藤さんは桶庄に入社することを決意した。長い曲折の末の入社だった。


◆一人ひとりの志を種に、個性と主体性を解き放つ(後編)へつづく

経営セミナー 松下幸之助経営塾




◆『衆知』2021.1-2より

衆知21.1-2



DATA

株式会社 桶庄

[代表取締役社長]佐藤寛之
[所在地]〒461-0018
     名古屋市東区主税町4丁目48番地
TEL 052-931-7876
FAX 052-931-8439
設立...1978年(創業1872年)
資本金...3,100万円
事業内容
 マンション・一戸建・集合住宅のリノベーション事業、マンション・一戸建・集合住宅のリフォーム・メンテナンス事業、宅地建物取引業