静岡県浜松市で自然エネルギーを利用したソーラーシステムを開発・販売するOMソーラー株式会社(社長の飯田祥久氏は「松下幸之助経営塾」卒塾生)は、今年創業30周年を迎えた。地球環境にも、住まう人の心身の健康にもやさしい、理想的な家を実現する理念と技術が支持され、バブル期前後に急成長。しかし2000年代に入ると、時代の変化に組織がついていけず経営危機に陥る。そんな荒波に見舞われた会社の再建を託されたのは37歳、転職組の元銀行マンだった。社長就任から8年、いかにして危機を乗り越え、使命に邁進するに至ったか。その取り組みと熱き思いを聞いた。
<実践! 幸之助哲学>
自然を活かし人を育てる「公器」として――前編
熱と空気をデザインする
JR浜松駅から東海道本線で豊橋方面へ向かうと、三つ目の駅が弁天島駅。そこから北へ約十分車を走らせた浜名湖畔に、OMソーラー株式会社がある。
この場所から環境と共生する技術を次々と孵化させていこう、との思いから、社屋には「地球のたまご」という名前がつけられている。建物は低層の木造建築で、分棟型の各棟は、太陽熱エネルギーを活用して換気や暖房、給湯などを行なうシステム「OMソーラー」を搭載したモデルハウスの役割も果たしている(以降、技術やシステムとしての「OMソーラー」にはかぎカッコをつけて社名と区別する)。
一万坪を超える広大な敷地の中には、自然エネルギーを活用するための実験設備や実験棟などが点在する。また、敷地が浜名湖に面しているため、埋め立てにより荒廃した湖岸の復元、湖畔の森の再生にも取り組んでいる。こうした取り組みから、環境問題を考えるためのフィールドワークの場にもなっており、小中学校の授業や産業観光、環境イベントの舞台として、年間七〇〇~八〇〇人が見学に訪れる。
自然エネルギーを活用した家づくりは、今でこそ珍しくはない。むしろ時代の流れとして省エネ住宅は必然であるといえる。しかし、OMソーラーの創業はバブル景気真っただ中の一九八七(昭和六十二)年だ。
きっかけは当時、建築家で東京藝術大学教授であった奥村昭雄氏と、浜松のある工務店(マルモ中村住宅)との出会いだった。「熱と空気をデザインする」という思想のもと、自然の力を活かして快適な室内環境をつくり出そうという奥村氏の研究に、工務店が注目した。そして奥村氏に相談の上、自社のモデルハウスに商品化前のこの技術を採用したところ、大きな反響を呼んだのである。
この時、工務店の経営者は、この技術は一企業の商品として独占すべきものではなく、全国各地で地域に根ざした家づくりに取り組む地域工務店の武器にしてほしいと考えた。そうして奥村氏とこの工務店のイニシャルをとって「OMソーラー」と名づけられ、本部が株式会社オーエムソーラー協会(現在のOMソーラー株式会社)として設立されたのである(その後、奥村氏の意向により、「OM」は「おもしろい〈自然と向き合うとおもしろい〉」「もったいない〈自然を活かさなきゃもったいない!〉」の頭文字とされた)。
会員になれば考案者の奥村氏をはじめ東京藝大系の建築家と接点を持てる。このことが、設計力、デザイン力の向上を目指す地場工務店のニーズと合致し、「OMソーラー」システムとともに会社拡大の要因ともなった。
現在、会員企業数は約一五〇社。OMソーラー株式会社はこれら会員企業に対して、システム導入のためのコンサルティング、シミュレーション、現地指導、部材の製造・販売など、「OMソーラー」の技術を核にした事業を展開している。加えて、広告・広報的な機能も持ち、会員工務店に対する販売促進のサポートのほか、エンドユーザーに対する直接的な広報活動も行なっている。
さらに創業三十周年を機に、「施主と直接接点を持つことが企業としての責任ある姿勢である」として、OMソーラーが窓口となったアフターサービス体制の強化を図っている。
待っていればお客様から来てくれた
「OMソーラー」は太陽の熱と空気を利用するソーラーシステムである。屋根の下に外気を取り込み、太陽熱で暖めたあと床下に送り込んで蓄熱。それを放熱することで床暖房や給湯に利用するというものである。「暖かい空気は上に昇る」という自然の性質を活用し、建物全体の仕組みとして熱と空気が循環するようにつくられている。部屋を暖めながら同時に換気ができるのも「OMソーラー」の魅力だ。
夏は、夜間放射冷却現象で熱が奪われた屋根面から外気を室内に取り込むと同時に、蓄熱コンクリートに蓄冷。さらに昼間は、家の北側の比較的温度の低い外気を取り込んで床下を経由させ、蓄冷されたコンクリートに触れさせることで涼気を室内へ送る。エアコンのように冷たい空気を吹き出すことはできないが、自然の力を利用した、できるだけ環境に負荷をかけないナチュラルな夏の過ごし方を実現している。
また、夏は太陽の熱でお湯を沸かす「給湯」も重要な機能になっている。化石燃料の消費削減に大きく貢献するとともに、「太陽で沸かしたお湯のお風呂に入るのは気分がいい」というエンドユーザーからの声も多く寄せられている。
こうしたコンセプトは、バブルの絶頂期にあっても環境や健康に対して問題意識を持つ層に強いインパクトを与えた。
やがて、二酸化炭素排出による地球温暖化が世界的に注目され始め、地球環境を無視した経済活動に疑問符が投げかけられるようになる。また、冷暖房効率を上げるための高気密・高断熱住宅が増えるにつれて、住まいに使われている化学物質が健康に悪影響を及ぼすシックハウス症候群が問題になってきた。換気をしながら快適な温熱環境を実現する「OMソーラー」は、それらの問題に応える"理想的な"住まいのあり方であり、時代を先取りしていたといえる。
もう一つ、OMソーラーの躍進を支えたものがある。それは「情報発信力」だ。
OMソーラーの初代経営者は、地域の自然と環境を活かし、季節の変化を肌で感じながら暮らせる「OMソーラー」のコンセプトに感銘を受け、その普及に情熱を注いだ。特に力を入れたのが、広告・広報である。
新聞には積極的に広告を打った。広告は「OMソーラー」の仕組みをわかりやすく説明すると同時に、その理念を訴える舞台になった。これには、毎回大きな反響が寄せられたという。
もっとも、広告紙面で説明できることは限られている。「OMソーラー」の家づくりとは何か。それがどれほど素晴らしく、地球環境にも家族の心身の健康にもよいことなのか。それらを解説した書籍を次々と発行した。
インターネットが今のように普及していない時代である。ほしい情報は、自分で探して自分で手に入れる必要があった。高額な買い物になる住宅の購入予定者は、なおさら情報を渇望していた。OMソーラーの書籍は、購入予定者たちの切実な思いに応えるものだったのである。
巻末には、「OMソーラー」を取り扱う全国の工務店の一覧が掲載されている。「OMソーラー」で住宅を建てたいと思った読者は、近くの工務店にみずから足を運んで相談する。「待っていれば、お客様のほうから来てくれる」という状態だった。
だが、経営はいつまでも順風満帆というわけにはいかない。バブル崩壊後も年間一四〇~一六〇万戸で推移していた国内の新設住宅着工戸数は、二〇〇〇年代に入ると一二〇万戸前後に減少。二〇〇八年にリーマン・ショックが起こると、八〇万戸弱まで激減した。
OMソーラーの経営は急激に悪化した。この事態に当時の経営陣が打った施策は、これまでの成功体験を再現するというものだった。すなわち、これまで以上に費用をかけて著名人が名前を連ねる新聞広告を出したり、出版活動に投資をしたりした。
時代は変化していた。新聞の購読率は昔のように高くない。ネットや口コミなど、情報を得るためのチャネルも多様化している。思い切った方向転換が必要だったにもかかわらず、できなかった。組織が変わることの難しさを思い知らされる出来事だ。
この危機を脱するためには、人心の一新しかない。経営トップが交代することになった。その時、白羽の矢が立ったのが、現社長の飯田祥久さんだった。本人にとっては、「青天の霹靂」だった。
「OMソーラー」の仕組み(冬の昼間)
軒先から入った外気は屋根に降り注ぐ太陽の熱によって徐々に暖められる。この空気がハンドリングボックスに集められ、小型ファンの力を借りて床下に送られる。空気は床下に広がり、コンクリートに熱を奪われ(蓄えさせ)ながら少し冷めた暖気が室内へと流れ出る。夕方、外気温が下がり始める頃から、蓄熱コンクリートが放熱を始め、床を暖める。(上図で熱と空気は①〜⑩の順に動く)
蓄熱の効果(実測)
◆「経営の軸」をつくり共存共栄の使命を確信(後編) へつづく
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