静岡県浜松市で自然エネルギーを利用したソーラーシステムを開発・販売するOMソーラー株式会社(社長の飯田祥久氏は「松下幸之助経営塾」卒塾生)は、今年創業30周年を迎えた。地球環境にも、住まう人の心身の健康にもやさしい、理想的な家を実現する理念と技術が支持され、バブル期前後に急成長。しかし2000年代に入ると、時代の変化に組織がついていけず経営危機に陥る。そんな荒波に見舞われた会社の再建を託されたのは37歳、転職組の元銀行マンだった。社長就任から8年、いかにして危機を乗り越え、使命に邁進するに至ったか。その取り組みと熱き思いを聞いた。
「経営の軸」をつくり共存共栄の使命を確認(前編) からのつづき
<実践! 幸之助哲学>
自然を活かし人を育てる「公器」として――後編
転職組社員に託された経営再建の重責
飯田さんは、元々住宅業界にいたわけではない。大学を卒業後、大手都市銀行に入行、浜松支店への転勤に伴い、銀行マンとしてOMソーラーを担当するようになった。
ちょうどこの頃、OMソーラーでは「グリーンシート」と呼ばれる非上場企業の株式市場へ公開を進めていたところで、金融の専門家として飯田さんがそのサポートをしていた。当時、財務を任せられる人材がいないのが課題だったOMソーラーでは、その能力と人柄を見込んで飯田さんをスカウト。飯田さんも、環境をテーマに持続可能な社会に挑戦するOMソーラーの事業に惹かれ、「自分が貢献できるなら」と入社を決意したのだった。
「当初は、財務部長か経理部長くらいを目指すつもりでした。転職組ですし、そこまで行けば御の字だと思っていました」(飯田さん)
ところが、年々経営状況は厳しくなり、会社は存亡の機に立たされる。飯田さんは、財務面から会社の実情を分析し、改革案をまとめて提言した。飯田さんから見れば、売上につながらないところで資金を使いすぎていた。広告も、そのほかの投資も、会社の身の丈に全く合っていなかった。これらを抜本的に見直し、もっと売上に直結する活動にエネルギーも資金もつぎ込むべきだとしたのである。
経営陣に加え、長年OMソーラーを見守り続けている顧問的立場の人やご意見番的な人物も交えて検討がなされた。そして、「この改革案を本気で実行に移すためには、従来の経営陣ではダメだ。経営危機を招いてしまった当事者は責任を取るべきで、今日からこの会社は生まれ変わるんだというメッセージを明確に打ち出すためにも、飯田君、きみがやるべきだ」と話がまとまった。
飯田さんにとって、この結論は想定外だった。何度も固辞したが、話の筋は通っているし、「改革案の提言だけして逃げるわけにはいかない」という気持ちにもなった。こうして、飯田さんはOMソーラーの社長に就任したのである。
経営状況はどん底だった。しかし、とりあえずこれまで積み重ねてきた無駄な出費をしないだけでも、赤字は削減できる。改革案を着実に実行することで、業績は徐々に回復していった。
原点回帰――会員工務店とともに
「OMソーラーの原点とは何か」――そこから考え直さないといけない、と飯田さんには思えた。OMソーラーは、会員事業によって成り立っている。各地域の会員工務店が積極的に「OMソーラー」を販売してくれなければ、この事業は成り立たない。
そもそも、「OMソーラー」の家を建てるのはなぜ地域工務店なのか。それは、その土地土地によって家づくりは異なるからである。「OMソーラー」の家は地域の自然環境を活かして建てるため、建てる場所や敷地条件によって設計や施工を変えていかなければならない。その地域で建てる建物は、その土地の気候や風土、気象条件を知り尽くした地域工務店が建ててこそ、いいものになる――それがOMソーラーの考え方だ。
「OMソーラー」の家は、単に設備機器を設置すればできるというものではない。建物の仕組みそのものを利用して太陽エネルギーを住まいに取り入れるシステムであり、それらについて正しく理解することなしに「OMソーラー」の家は建てられない。
会員工務店は、繰り返し開催される講習会に参加して、知識や技術、ノウハウを一つひとつ獲得する。加えて、会員企業同士の交流によって、お互いに技術や経験を交換する。OMソーラーは、こうして会員工務店と二人三脚で歩んできた事業なのである。
確かに、経営環境の変化から契約を解除した工務店もあれば、縮小する市場の中で淘汰されてしまった工務店もある。
しかし――「当社には、一五〇社の会員工務店がある」と飯田さんは考える。
過去には大手ハウスメーカーから提携の打診を受けたこともあるが、すべて断ってきたという。全国で建てる家を規格化・標準化しようという大手のコンセプトと、「OMソーラー」の家のコンセプトは相容れないものだ。
会員工務店の繁栄なくして、OMソーラーの繁栄はない。逆にOMソーラーの積極的展開なくして、会員工務店の繁栄もない。OMソーラーと会員工務店は、まさに一心同体である――飯田さんはこのことを会員工務店に強く訴え、ともに歩むことを呼びかけた。
会員工務店のほうも、飯田さんの呼びかけに応じて意識が変わり始めている。以前は本部(OMソーラー)が行なう大々的な新聞広告や書籍の発行に頼るだけで集客できたが、もうそういう時代ではない。今の消費者は一方的に与えられる情報だけでは判断しなくなっている。SNSを駆使したり口コミで情報を得たり、情報収集の方法も判断のやり方も多様化している。
工務店の中には、野菜の直売所や近隣のカフェなどと組んで、様々な地域イベントを実施しているところもある。一見、住まいとは関係がないように思えても、「住む」ということには、「食べる」や「着る」、「遊ぶ」など、暮らしの全般が密接にかかわっている。「住む」とはどういうことなのかをトータルにイメージし、トータルに提案することが求められているのではないか――そんな問題意識から、活動に工夫をする工務店も増えてきた。
「工務店というのは、戦後の復興期に今の業態で始めたところが多くて、ちょうど代替わりの時期を迎えています。四十代くらいの元気な経営者が増えているんです。彼らとともに次の時代の地域建築をどうつくり上げ、発展させていくのか。とてもエキサイティングな課題だと思っています」
と飯田さんは期待を寄せている。
大きな空間でも温度差の少ない室内環境を実現する「OMソーラー」は、吹き抜けなど伸びやかで広がりのある空間づくりを可能にする。右端の茶色の円筒が、立ち下がりダクト
〝経営の軸〟をつくるための本質的な学び
こうした取り組みによって、目の前の経営危機からは、まずは抜け出すことができた。もう一度、OMソーラーの原点を見直すことで、何を目指して仕事をするべきなのかという方向性が、社内外に対して明確になった。
しかし、飯田さんの中には、それだけでは得心しきれない「何か」が残る。「これを放置したら、この先もっと深刻な事態になりかねない」という漠然とした思いがあった。
そんな時、松下幸之助経営塾のことを知る。
「自分に今必要なことは、これではないか」
直感的にそう思った。「無駄を省いて原点回帰をし、会員工務店の今の経営環境に合ったマーケティング手法を導入していく。ここまではよかったと思います。しかし、本当に必要だったのは、この事業を支えるための〝経営の軸〟をつくることでした。この先は経営者としての器の問題だ――そのことに気がついたんです」
危機に際しては、悠長なことなど言っていられない。目の前の案件に取り組み、乗り越えることだけを考えて進まなければならない。
だが、そこを通り過ぎると、今まで見えていなかった課題が表面化する。危機を乗り越えたことで、飯田さんは経営の本質的な問題と向き合うようになる。経営塾で学ぶあらゆることが、飯田さんの全身にしみていった。
会社は公器――この事業が社会にとって必要なのか常に問うこと。
共存共栄――取引先やユーザー、さらには社会とともに繁栄を目指すこと。
商品をつくる前に人をつくる――求める人材像を示し、一人ひとりの社員と向き合うこと。
素直な心――人間観や宇宙観を持って事業や世の中を見ること。
回を重ねるごとに学びは深まるものの、それは同時に自身のふがいなさ、器の小ささに直面することでもあったという。
支えになったのは、同志(塾生)たちの存在だ。業種や地域は異なっても、自分と同じような立場で奮闘している。熱い志を持って経営にあたる仲間たちの姿に刺激を受け、勇気づけられた。
「松下幸之助さんの苦悩は驚くほど深いと思いました。あれほどの方でも弱さを持っているし、矛盾や欠点もある。〝経営の神様〟も人間だったんだな、と思います。当然ですが、われわれ経営者も人間だし、社員も人間。誰もが弱い部分を持っているし、その人ならではの考え方や持ち味も備えている。そんなふうに見られるようになりました」
今、飯田さんがみずからの課題と感じているのが、幹部育成である。幹部の経営意識をどう高めるのか、試行錯誤の日々が続いている。大なり小なり、すべての経営者が抱えている問題かもしれない。
転職で入社した会社で、経営の最終責任を負う立場を引き受けた飯田さんが、〝経営の軸〟づくりを通して得た確信――それは、共存共栄に対するみずからの使命だ。企業は公器。OMソーラーが世の中から求められる存在である限り、飯田さんは個人としてというより、公的・社会的な責任を負う立場として、社員、会員工務店、ユーザーに向き合っていくことだろう。
こうしたあらゆるステークホルダーとともに歩む飯田さんの姿は、自然の力を活かし、環境に対して責任を持とうとするOMソーラーの事業のあり方そのものと重なって見えた。
(おわり)
松下幸之助経営塾
◆講師は?